先日、九十歳すぎまで独りで暮らしていた男性の檀家さんを見送った。奥さんに先立たれたのが約三十年前。その時は子供たちもすでに独立していたから、そのまま最近まで独りで農業をしながら暮らしてきた。そして最後は長男夫婦が数年同居し、骨折がもとで入院はしたものの、見事に「老衰」で亡くなったのである。
 世話をしていた長男の奥さんが、とても興味深い話をしていた。
「義父はいつもにこにこ温厚な人で、とにかくジリツ的でした」
「ジリツ的、ですか?」
「ええ、自分のことは何でも、たとえば洗濯でも、自分でするんですよ。お料理は、私のヘタなのを食べてくださるんですけどね」
「ああ、自分で律する、自律ですね」
「ええ」
 これは枕経をあげた後の私との会話である。旦那さんも頷きながら聞いていた。いい話だと感じ入っていたら、六十代後半と(おぼ)しき彼女はさらに眼を輝かせて続けた。「しかも、自分のことをそうやってあれこれしながら、よく口笛を吹いてたんです」「口笛、ですか。……どんな曲です?」「曲はわかりません。曲になっていたのかどうかも、わからないですけど、とにかく上機嫌なんです。最高のお舅さんでしたね」
 それを聞いて私は、思わずネコや犬が上機嫌を示す能力に思いを馳せた。ネコはごろごろ喉を鳴らし、犬は尻尾を振る。彼らのこの能力について、私はかねがね尊敬の念を抱いているのだが、人間の場合はそうした大切な能力が如何に抑圧されているか、そう思って考え込んでしまったのである。
 人間には、外から見て上機嫌だと判る徴がさほどあるわけではない。たとえば掌や項があかくなるなど、はっきりした身体特徴が表れれば偽れなくていいのだが、大人は特に笑顔をうまく使いこなすから判別しにくい。あえて上機嫌の正直な証拠を探すと、やはり鼻歌か口笛くらいしかないのではないだろうか。何よりそれらは、無意識に出るものだからこそ信用できる。
 ところがこれは、我が国では全く評価されない。昔、中学校の卒業式で鼻歌を歌った同級生がおり、先生にひどく叱責されるのを見た覚えがある。場所によって「不謹慎」と叱られるのは勿論だが、ならばどこならいいのかと考えても、トイレか風呂場くらいしか思い浮かばないのである。なんという不幸な「上機嫌」だろう。
 なるほど卒業式も結婚式も、「式」と呼ばれるかぎり「厳粛」であるべきなのだろう。結婚式は「厳粛でありながらも和やかな」披露宴が褒められるが、それでも口笛や鼻歌ほど自律的な上機嫌が歓迎されるわけではない。
 そんなことを考えていると、折しも日の当たる縁側に近所の赤虎ネコがやってきた。前肢を折り曲げ、奥さんによれば「いつものように」ネコなりに正坐したのである。
 餌を運ぶでもなく、声をかけるでもなく、我々はただそのまま日向を見つめて会話していたのだが、そのうちネコは、初めは遠慮がちに、やがて盛大に喉を鳴らしだした。厳粛で静かで美しい死に顔の約二メートルほど先で、ネコは重厚な音を響かせつづける。まるでグレゴリオ聖歌のようで、立派な枕経とも聞こえた。聖なる老衰が、ネコの聖なる日常的上機嫌によって荘厳されていったのである。


 
     
「ねこ新聞 」2014年3月号