長くこの世に継続してきたものには、時代に応じた変化の様相も見えるし、その柔軟さゆえに守られてきた不易なる要素も必ずある。悠久なる時間を生き抜いてきた禅においてその両面を探り、併せて現代に求められる禅の在り方についても考えてみたい。

 ここでは禅の起源を、達磨大師の壁観(へきかん)とは考えない。それは確かに禅宗の歴史における大きなエポックだが、禅を一般化して禅定と捉えれば、すでに釈尊自身が霊鷲山(りようじゆせん)上で「戒律、禅定、智慧」という、後に「三学(さんがく)」としてまとめられる方法論に言及している。禅定によって我々の求める智慧が得られ、禅定のためにこそ戒律があることを、釈尊ははっきり認識されていたのである。
 むろん、そうした釈尊による体系的な理論以前に、インドにはヨーガとおう伝統的な修練法があった。新旧さまざまなヨーガがあるが、本来ヨーガとは「大いなるものとの合一」、もっと原義に忠実に云えば、「馬を御するように身心を制御すること」を意味する。日本におけるヨーガの先駆者とも云われる佐保田鶴治氏は、いみじくも「ヨーガ禅」という言葉を使ったが、呼吸法や姿勢によっては体を調え、身心合一をめざすヨーガも、広義では禅に重なるものと考えて差し支えないだろう。
 いや、逆に、禅をヨーガの一部を見ると立場もあり得る。もともと禅(ディアーナ)じたい、「ヨーガ・スートラ」第二章に説かれているし、さまざまなアーサナ(姿勢)のうち、禅は坐法だけを選んだと考えることもできるからである。
 禅定のほかに静慮(じようりよ)とも訳されるディアーナだが、アーサナ(姿勢)から離れることで、禅は却って如何なる動きにも混入できるベイシックな「不易」の部分を探ってみよう。

 ヨーガで「サマディ(三昧)」と呼ばれる境地が、禅にとっても目指すべき状態と云えるだろう。天台の『魔訶止観(まかしかん)』などはそこまでのプロセスを段階的に叙述するが、ここでは大まかに我々の脳の在り方を絡めて考えてみたい。
 およそ我々の脳には、覚醒状態において二つの用い方がある。一つはむろん論理的な思考であり、もう一つがいわば瞑想である。
 思考は「私」とどうしても密着しており、感覚もすでに「私」の都合に染まっている。それゆえ感覚が集めた材料で思考し、分別しても、それは「妄想」「妄念」である。思考の媒介をなす言葉じたい、信用しないのが禅の伝統だが、こうした言葉への不信は、中国において荘子の思想にも補強される。荘子は「()ること有りて可とし、()ること有りて不可とす」と云うが、要は可とするものも不可とするのも主観的な判断であり、そんなものはアテにならない。「言は風波(ふうは)なり」とも云い、荘子において言は争いの道具とさえ認識される。
 荘子は坐禅に似た「坐忘(ざぼう)」という行為をしたことで知られるが、紀元前三世紀の人だから完全に仏教流入以前である。言葉や思考を否定する(あるいは超える)瞑想的な在り方は、独り仏教やバラモン教、あるいはヒンドゥー教ばかりでなく、各地に生起していたことは間違いない。イスラームやユダヤ教における事情は井筒俊彦氏の『意識と本質』(岩波文庫)などに詳しいが、ここでは紙面の都合上省く。要するに、「自己」の認識やそれを構成する言語的思考は「いのち」を苦しめるということを、多くの人々が昔から気づいていたということだ。
 別な言い方をすれば、人は意識下にもっと深い認識の蓄積があることに気づき、その通路を求めたとも云えるだろう。深い瞑想体験を元に「唯識」と呼ばれる学問が形成され、人間の無意識世界が探究される。深度に応じ、マナ識、アラヤ識と名づけられるが、それは「自己」の溶解度に応じた無意識世界の区分であり、アラヤ識において完全に自己は溶融し、大いなるものと合一する。瞑想や坐禅は、自己愛の残った危険な無意識領域「マナ識」を通り、さらに深みにある広大無辺なアラヤ識へと向かう旅とも云えるだろう。
 方法論としては、インド以来大別して二つある。「サマタ」と「ウィッパサナー」だが、あるいは中国語訳の「止」「観」のほうが耳目に馴染んでいるかもしれない。カトリックが行なう瞑想や臨済宗の公案を用いる方法は「止」。これは劇的な覚知が得られるものの、指導者に従わない独学は難しい。一方の「観」は、近頃上座部仏教の日本における興盛と共に流布しつつあるが、じつは白隠禅師もすでに「軟酥の法」において取り入れている。詮ずれば、「止」は意識を何かに集中させつづけるうちにその主体が溶融する体験。「観」は流動変化してやまない何かに意識を載せることで思考を妨げ、命と一体化する体験である。
 最近の脳科学者によれば、我々は通常一分間に百五十から三百もの言葉を想起し、一日に四万五千から五万もの思考を繰り返しているというが、不安や後悔など、明らかに思考の蓄積によって発現する感情から、人は「禅定」によって解放されるのである。二祖慧可の不安を取り除いた「達磨安心」のエピソードは、壁観を修する者には当然の帰結だったのである。


 さてこうした「不易」なる禅の世界を踏まえ、現代の変化のなかでの禅の「流行」も見ておこう。
 まずはなんと言っても、中国における老荘思想との合流が挙げられよう。老荘的「無」や「無為自然」の思想は、達磨の禅の成立にも大きく関わっている。同じように言葉を介さない把握が、達磨によって「直指人心」と表現され、それによって我々は「見性成仏」できるとされたのだ。ここでの「見性」が老荘的な「性(もちまえ)を見(現)わす」と訓まれるべきことはおそらく違いない。
 『大乗起信論(だいじようきしんろん)』を経た中国の禅は、アラヤ識の底に「清浄心」や「光明」を見出すようになっていたから、唯識が見る無限の熏習(くんじゆう)世界よりはかなり楽観的である。いずれにしても禅は、老子の「無」や荘子の「解脱」「大覚」などの用語を用いることで、中国化という最初の大きな「流行」を経験するのである。
 日本の禅を想起すると、次ぎに思い浮かぶ流行は武士道との相関であろう。沢庵禅師の『不動智神妙録』などに結実するように、禅は実践的な行動原理として更に「前後際断」の心の実現こそ、武士道においては勝負を分ける要となる、予断や悔悟など、「今」以外への思考の流出が即ち死を招くほどの失態になるのである。
 ここにおいて、「無心」は老荘思想の如く、「どこにもなくてどこにでもある」心と再認識され、意識も「全身滞りなく行きわたっている」ものと見做される(『不動智神妙録』)。要するに、意識下に直結した心の在り方で、これが「無心」による「直観」として讃えられるのである。
 鈴木大拙翁は、禅の「無心」と浄土教の「無縁の慈悲」が大きく日本人の心の基層を成していると看破した。たしかに前者はさまざまんま「道」と呼ばれる修養法に流れ込み、武道や花道、茶道や種々芸能に実践的な指針を与えたと云えるだろう。同じ動作を反復練習して「身につける」方法論は、禅的には無意識領域(あるいは自然)の拡張であり、それによって直観も磨かれることになる。
 金春禅竹の『宿明集』では「翁」とは日本における神の顕現とされ、それは意識的に探してもけっして出逢えない存在とされる。ここでは日本の神、「無心」にこそ得る禅的な存在になる。『荘子』における「偶々(たまたま)得て(ちか)し」、あるいは「忘筌(ぼうせん)」など、無意識性や「忘れる」ことの積極的な解釈を思い起こさせる。
 無意識でありつつ我々の命は躍動しなくてはならない。坐禅という静的な禅定体験は、やがて平和な江戸時代ではとりわけ動的な日常生活に求められるのである。白隠慧鶴禅師はその消息を「動中の工夫、静中に勝ること百千億倍」と表現した。白隠やその後の仙厓義梵の時代、禅は著しく日本化したと思えるが、それはある意味、(しん)(じゆ)(ぶつ)が混在しても一向に差し支えない禅の定立であった。仙厓の師匠である月船禅慧(げつせんぜんね)の「無禅の禅、是れ正禅と名づく」という言葉がそれを端的に物語っている。禅は当初の瞑想におけるサマディ(三昧)を離れ、仏教の一派であることも忘れ、どのような活動においても実現する「身心一如(しんじんいちによ)」の状態を意味するようになるのだ。日本において「三昧」が本来の「サンマイ」ではなく、上にどんな活動を伴っても「○○ザンマイ」と熟語化されることにそれはよく表れている。少々危険なこの「禅定の独り歩き」は、戦争中にはたとえば「突撃三昧」といった形で蛮勇を鼓舞する理屈にもなった。
 しかし直観の重視、あるいは刹那における無意識の命の躍動は、それ以前から広く日本人の心に通底する美学、もしくは行動原理になっていた。臨済宗の仏頂(ぶつちよう)禅師との問答を通じ、俳諧の道にその成果を示したのが松尾芭蕉だと私は思う。芭蕉における無意識の重視は、四十二歳のときに「翁」と自称したことでも推察される。その翌年芭蕉は、有名な「蛙飛び込む水の音」という言葉を仏頂禅師との問答において捻出する。蕉風(しようふう)開眼の契機とされる「古池や」の句の後半だが、俳人による解釈とは別に、「古池や」だけで禅の閑寂な境地が端的に示され、そこに無意識の命の躍動が描かれたと見ることもできるはずである。鈴木大拙翁もアメリカでの講演で、この句の枢要を「Life Impulse」と表現している。
 その後四十六歳で「奥の細道」の旅に出た芭蕉は、命の躍動を「青葉若葉」や「軒の栗」の花、「夏草」、果ては水流の増した「最上川」にさえ見ていくことになる。
 禅と自然に親和感は、それゆえ二重の意味で妥当する。一つは「アラヤ識」を自然と重ね、三昧によってそこに繋がろうとする指向性において。もう一つは作庭などにおける「山水」という独自の自然観において、である。自然を阿弥陀仏と呼んだ善導(ぜんどう)大師を引くまでもなく、浄土教と禅の親和性も明らかであろう。しかし日本仏教はみな「禅定」を目指す強い方向性をもつという意味で、ベイシックに見ればじつはどれも禅的である。
 「不易」と「流行」は芭蕉が「奥の細道」から戻ってから唱えた俳句論、いや人生観だが、じつは芭蕉の主旨も同じ事柄についての二つの見方にすぎない。禅の「不易」と「流行」も最終的には一致し、「流行」のなかに「不易」が見据えられ、「不易」を見るときも「流行」が感じられるべきなのである。
 
 紙幅がなくなってしまったが、最後に少し、現代に求められる禅について考えてみたい。
 西欧化した現代社会において、自然は先ほどの両方の意味で圧迫されている。分析ばかりが横行する脳内においても、瞑想智がもっと尊重されなくては生命力が枯渇するはずである。
 折しも上座部仏教の僧侶たちが各種瞑想を紹介し、かなりの勢いで流布しつつある。上座部仏教のシンプルな考え方が受けるのも頷けるが、大乗と呼ばれる我々日本仏教僧侶も、座視していていいはずはない。まずは伝統仏教的な教えの中に、広義の瞑想を見いだし、それを流布すべきだろう。白隠禅師の「軟酥の法」や真言宗の「阿字観」などは明らかに現代に通じる優れた瞑想法である。
 要は、かつてないほどの身心の不調和を感じているのが現代人であり、それに対処する「流行」が未だに生まれていないのが現状である。伝統的な道場での「不易」なる修行はむろん継続されなくてはならないが、じつはそこに入門する若者たちが変化しつつあることにも眼を(つぶ)ることはできない。多くの心身症、IT化やデジタル化の潮流など、「禅定」から乖離するこの流れにどのような「流行」を生み出すのか、それが今、禅に問われている気がする。そして一つの「流行」を生みだせたとき、必ずや我々は「不易」なる禅に、より強く魅せられるはずである。


 
     
「大法輪」2015年8月号