沖縄に出かけるたびに大城先生にお目にかかる。初めは二〇〇四年か〇三年か、 いつも自分の父親と同じ年齢であることを忘れる。おそらくそれは、氏の率直さや桁外れのエネルギーのせいばかりでなく、創作そのものへの覚悟のせいではないか。先日、川端康成文学賞の贈呈式でお会いして、そんなことを思った。 震災の年に編まれた『普天間よ』の「あとがき」によれば、氏は芥川賞受賞のとき、沖縄で作家になると、戦争を避けては通れないが、自分はよくある「悲惨な戦場」ではなく違う戦争を書こうと思った、と記す。「生活の場が戦場になるとは如何なることか」という問いから始まり、さまざまな小説や戯曲(沖縄芝居)が産みだされていった。今回の短編集『レールの向こう』でも、その観点が貫かれているのは間違いない。 あまり単純化したくはないが、本書に収録された短編を例にあげると、たとえば「エントゥリアム」では沖縄からハワイへ移住した人々の労苦が描かれ、「四十九日のアカバナー」ではバイク事故による息子の死をきっかけに、巫女買いに走る母と祖母、本家と分家の葛藤が重層的に描かれる。また「天女の幽霊」では、沖縄独特の巫女を語り手に、新都心の開発をめぐる人間の欲望が抽出されるが、ここでも巫女性と女性性、男と女、巫女の真贋といった一種の戦いが、沖縄独特の歴史を背景に見事に描きだされるのである。 要するに、どの物語も一筋縄ではいかない重層性に満ちており、語り手の葛藤や思いの変化で物語は大きく動く。そこが予断を越えて面白いのだ。「まだか」という作品は、死期の近い父親の周辺でのいざこざだが、遺産相続に思いをかける弟と死ぬ前に父に許しを請いたい妹の複雑な思いの交錯が、長男の目で描かれる。「まだか」というタイトルじたいも秀逸だが、やはり読み応えは語り手自身の心の葛藤と変化にある。 語り手自身の心の葛藤が更に浮かびあがるのが表題作の「レールの向こう」である。レールのこちら側には脳梗塞で入院した妻をはじめ、息子たちや妻の妹なども含めて営まれる尊い日常がある。大城氏自身とも思える語り手は、老いも死も含んだその日常を尊いものと思い、慈しむように語っていく。しかし作家である語り手は、どうしても「レールの向こう」を切り捨てられない。そこには 永年、覚悟してこの戦いを続けてきた大城先生ならではの傑作であろう。一瞬、破調かとも思える描写の膨らみも、いや、そうではく、縁によってテーマが深まる仕掛けだと気づき、長嘆息する。 この一冊が、沖縄の深層に触れるテキストであることは勿論だが、それはまた覚悟を保って燗熟した人生の、深い愉楽も教えてくれる。 |
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「波」 2015年9月号 | ||||