昭和三十一年生まれ。作家・臨済宗僧侶。最新刊に痴呆症や介護を軸に生きることの意味を問い直した小説『龍の棲む家』がある。

 私は足掛け五年、高齢の母と同居の介護生活を送りました。母が亡くなって二年が経ちますが、想像以上の喪失感。そして過ぎ去った介護生活の自分を省みるとき、自己嫌悪と罪悪感に時々襲われます。
 例えば疲れていたとはいえ、時として母への心無い言動、母の取り留めのない話に手を休め同調し、ゆっくりとその話を聞いてやらなかったこと等。つい日常の生活をペースを第一に考えていたようで、奮闘していた自分を幾分かは認めながらも、己の心の狭さ、優しさの欠如に今更ながら悔いるのです。
 これからはすべて我が身から生じたことですから、この感情から逃れ、解放されたいとは思いません。(それでは虫がよすごますから)。ただ、この精神衛生学上、解明できるものならば、それをお聞きしたいと思います。
 
 理学や精神衛生学の専門家でない私ですが、お答えすることをお許しください。
 まず、初めに申し上げたいのは、足かけ五年にわたるご自宅での介護、本当にお疲れさまでした。そして、多くの葬儀を執行してきた私が思いますに、親を見送ったあとに「思い残すことはない」と云える人はほとんどいない、ということです。
 まずは介護ですが、これは元気だった親御さんの身体機能の衰えや精神作用の変化を、目の当たりにするということです。むろん介護にまつわる現実の手間ひまや疲労もあるでしょうが、同時に、以前のように反応してくれず、分かってくれているのかどうかもはっきりしない、そんな場面に苛立ち、忙しさもあってつい苛立ちをぶつけてしまうことにもなるのではないでしょうか。
 文面からは、痴呆の症状があったのかどうかははっきりしませんが、老いというのは、多かれ少なかれ普段の認知・判断・行動の変化を伴います。私としては、それを喪失と見るのではなく、ある種の回帰と見たいところですが、実際に大きく変化していく母親に向かえば、親子の情がある分ショックも大きく、どうしてもそれは衰えや喪失と見えてしまうのかもしれません。
 介護の専門家たちは、ある意味では情を込めすぎず、その対応をテクニックとして学んでいます。我々がそこから学ぶことは大いにあると思います。
 しかしテクニックというのは、本当は情があってこそ活かせるものです。そして特に痴呆症状のあるお年寄りには、単なるテクニックは見破られ、心底の情だけが伝わるものではないでしょうか。
 忙しく、一所懸命であるだけに態度もきつくなってしまった貴方についても、きっとお母様は心底の情を感じ取ってくれていただろうと、私は思います。
 その一点は信じつつ、懺悔(ざんげ)の気持ちで行なうのが今後の供養というものではないでしょうか。
 心理学や精神衛生学どころか、いつのまに宗教の話になったかと(いぶか)しまれるかもしれませんが、ニーチェなど初めから仏教は精神衛生学だと看取っています。
 要するに、思い残すことなく家族を見送ることは、誰にとっても難しいために、心理的な要請として始まったのが供養という方法だと思えるのです。
 供養を受け、死者の気持ちが安らぐことを想像することは、即ち自己の気持ちが安らいでいくことでもあります。
 たとえばお寺で法要をすることは、大袈裟(おおげさ)に云いますと自分のなかの死者の記憶を再編成することでもあります。
 お母様が亡くなられて二年。その記憶は後悔と喪失感で今は彩られているかもしれません。しかしいつまでもその記憶が変わらないわけではありません。
 たとえば今でも、ご自身の生活がうまくいかないときには、お母様への後悔も大きく重く感じられるということがおありではないですか。逆に充実した暮らしのなかでは、そこからの学びを積極的に活かしていたりするものです。
 つまり、人の記憶とは、憶いだすそのときの気持ちに大きく左右され、過去の材料をそのときの気持ちで再編成するものですから、時々刻々、変わり続けているとも云えるでしょう。
 だからこそ、供養は有効ですし、なによりご自身の生活を充実させていくことが最高の供養でもあります。そう考えれば、供養を積む、という古くさい言い回しも、心理学や精神衛生学上の言葉に聞こえてくるのではないでしょうか。
 人の死に甲斐というものを思うとき、なにより自分の死によって誰かが大きく変わる、ということ以上の死に甲斐はないと思います。多くの人の変化を望むというより、ごく親しい家族がこれほど変わった、お母様の死をきっかけに私はこれほど変わった、と示すことこそ最高の供養であり、お母様にとってはこの上ない死に甲斐を得た、と云えるのではないでしょうか。
 だとすれば、今感じていらっしゃる後悔も喪失感も、今後の変化のための大きな種ではありませんか。
 懺悔し、決意するところから全ての新しい道は始まります。いくつになっても、私たちは命を更新していくべき存在です。
 竹をご覧ください。あの清風を起こす枝は、必ず節から出ています。貴方にとって大きな節目であったお母様の死やその後の出来事こそ、新しい技を出すチャンスですし、節は多いほど竹ぜんたいもしなやかになるはずです。
 今回、こうした質問に応募くださったことも大きな節目ではありませんか。
 もしかすると、すでに新たな気持ちで充実した日々を送っていらっしゃるかもしれませんが、今後もますますしなやかになられますよう、遥かにお祈り申し上げます。
続く

「文藝春秋SPECIAL」2008季刊冬号