小学生には是非とも日本語をきっちり学んでほしい。私はそう思うのだが、このところ高まる英語熱には如何ともしがたい圧力を感じていた。しかしこのほど、鳥飼玖美子さんが文春新書で『危うし! 小学校英語』を書いてくださった。我々の世代には同時通訳者として知られる彼女のような方が、きっちり資料を整えて発言してくださったのはありがたい。
 この本ではっきり言われているのは、まず母語がある程度確立してからでないと、外国語の学習は効果もうすい、ということだ。
 たいてい、日本語は子供の頃から親しんでいるのだし、英語もそうすれば話せるようになるだろうと、考えがちである。たしかに子供用の英語は、そうかもしれない。しかし最終的に求められているのは、大人の英語である。
 それには、ある程度言語脳が作られている必要があるわけだが、ある脳科学者によれば、言語脳というのは一つの言語でできあがるらしい。二つの言語が中途半端にできても、言語脳は中途半端にしか発達せず、したがって子供用の英語はできても、その後の進歩はむしろ望めなくなってしまうというのである。帰国子女たちの苦悩も、その辺りにあるようだ。
 しかも日本語というのは、ほかの言語のように音声言語としての仮名だけでなく、漢字を読むことで絵画を鑑賞するような脳機能(側頭葉下部)も使われる。つまり、ある時期に日本語習得の努力を集中してしないとその両方は発達せず、今度は日本語の習得に支障をきたすことになるのである。
 今年三月、中央教育審議会が「小学校英語」必修化を提言した真意はよくわからないが、少なくとも普通の感覚では、小学校から外国語を学ばなくてはならないというのは、植民地的な事態である。一九一年日韓併合によって、朝鮮半島の国民はすべからく小学校から日本語を学ばせられたわけだが、これがどれほど屈辱的なことだったかは、その後の屈折した歴史が証明しているだろう。しかし今、日本は不思議なことに、嬉々としてアメリカの植民地になろうとしているのだ。
 小学生から英語を学ばせたいという事態に、どれほど親たちの英語コンプレックスが関係しているか、そのことについてもこの本は描いている。中学から大学まで学んだ英語が一向に使いものにならないことが、会話中心に、しかも低年齢から学べば解消されるだろうと、彼らは思い込んでいる。しかしそれが如何に勝手な思い込みかも、鳥飼さんは容赦なく暴いてしまうのである。
 なにより驚いたのは、現在活躍する同時通訳者のほとんどが、中学以後に英語を学んだという事実である。ほかにも伝えたいことは多いが、詳細はこの文春新書を読んでいただきたい。
 ここでは最後に、私自身とても興味深かった鳥飼さんの指摘を掲げておきたい。
 小学校で英語を学ぶ場合、教師の不足だけでなくさまざまに困ったことがあるのだが、なかでも外国人講師などに来てもらう場合、日本語でなされる他の教科の授業と、根本的に求められるキャラクターが違うことが問題だという。つまり、他の教科の授業では、黙って静かに先生の話を聞き、真面目に板書を写す子供が誉められるのに、英語のときだけは明るくハキハキしてよく喋る子が先生に誉められる。この混乱は、人格形成中の子供たちには重すぎるのではないかと、鳥飼さんはおっしゃるのである。私もそう思う。
 子供たちにアンケートをとると、七割の子供が「英語が好き」と答えるらしいが、まだお遊び程度にしか学んでいないうちから、三割が嫌いだということこそ問題だろう。まだ今なら、必修化に反対すれば間に合うのだと私は叫びたい。

福島民報 2006年 7月 16日 日曜論壇