人はさまざまな約束をしながら生きている。明日の約束もあれば、死ぬまでにきっと、という誓いのようなものもある。キリスト教圏には神との契約という考え方があるが、これだって約束の一種に違いない。
人はなぜ、約束するのか。それはおそらく、変化してやまない諸行無常の在り方を知っており、だからこそ何かに自分の生を繋(つな)ぎ止めておきたいのではないだろうか。
むろん、そんなに大袈裟(げさ)じゃない約束だって多い。明日の晩飲もうよ、といった約束もあり、また何月何日までに原稿を渡す、という約束もある。
私は、なるべくならあまり約束はしたくない。僧侶という仕事柄、突発的な出来事がいつだって起こり得るからである。明日の晩もお通夜になるかもしれないし、来年の今日だってどうなっているか予測もつかない。つまり私は、破るかもしれない約束はできるだけしないようにしているのである。
しかし、世の中どうもそれでは許していただけない。今年いっぱいの講演予定は詰まっているし、来年のまで入っている。原稿の締め切りだって、気が向いた頃に、というわけにはいかない。
こんなに約束があって、もしものことがあったらどうなるのだろうと、ときどき不安になる。しかし逆に、約束があるためにもしものことが起こりにくい、という部分もあるのかもしれない。
講演があったり締め切りが混んでいるときなど、決して風邪も引かない。たまに引くのは、必ず二三日休んでもよさそうな時なのだ。もしかすると、からだも約束を守ろうと協力しているのではないか。
こんなタイトルが浮かんだのは、昨夜視(み)たテレビ番組のせいだ。
私が生まれた一九五六年、外務省の斡旋(あっせん)によって南米のドミニカ共和国に渡った千人あまりの人々の苦難が、長年かけたドキュメントとして放映されていたのである。
当初外務省は、東京ドーム四つ分にも当たる農地が、移住者に与えられると「約束」していた。当時の文書にはそう書いてある。
しかし現地に着いてみると、面積も約束と違うし、石ころだらけの野山や塩を吹いた土地など、とても農業のできるような土地ではなかった。しかもその土地の所有権は与えられず、耕作権のみだという。多くの人がほかの南米の国に移り、また涙を呑(の)んで帰国していった。しかし中にはなんとかこの土地で活路を開きたいと居残った人々もいて、番組にはその人々の苦悩の日々が丹念に写し撮られていた。
電気もない暮らしを三十年も続け、借金をしてまで井戸を掘り、田圃(たんぼ)や畑を作った人々は、外務省のあまりにつれない応答に業を煮やし、とうとう二〇〇一年、愛する国、日本を訴える。「約束が違うだろう」と。移住後約五十年、悩んだ末の決断だった。
しかし外務省は、当該文書を書いたのは外務省自身ではないと言い逃れ、しかも外務省は斡旋しただけなのだと約束じたいを否定する。
その後国は、訴えを取り下げればお詫(わ)びしてもいいと、これは脅しのような対応をする。本当に国を愛すればこそ苦悩する人々の、愛国心を逆手にとったやり方である。
お詫びとは、小泉首相名で書かれた文書一枚。そしてその後二〇〇六年に一時見舞金一人百万円也。この文書も何か問題が生じれば、きっと「私自身が書いた文章ではない」と言い逃れされるのだろう。
国との約束も、できるだけしないようにしたい。
|