広辞苑によれば、栄養摂取を目的とせず、香味や刺激を得るための飲食物を「嗜好品」という。酒やお茶、コーヒー、タバコなどが例示されるが、どんな嗜好品を好むかは人それぞれ。だからこそ嗜好品を認めることは信教の自由と同じく人の個別性を認めることでもある。
 ところがこの嗜好品に対して、歴史的にはさまざまな子供じみた規制がなされてきた。一九一九年一月、アメリカのウィルソン大統領が発布した全国禁酒法もその一つだろう。しかし嗜好規制への抵抗は根強く、たとえばニューヨークに一万五千軒あったバーは禁酒法以後逆に三万二千軒もの闇バーに増殖する。そこを仕切ろうと登場するのがアル・カポネなどのギャングたちで、結局は莫迦な法律であったと気づき、一九二九年、大恐慌の年にようやく法律そのものの間違いを認めるのである(改悪した憲法を戻すのは三三年)。
 お茶についても、じつは似たようなことがあった。
 インドの東インド会社からイギリス本国にお茶が持ち込まれた十七世紀初頭、イギリスはコーヒーの国だった。既得権を守りたい人々は新参の嗜好品であるお茶に脅威を感じ、それがいかに体に悪いかを主張するのだが、今それを振り返ると面白い。当時の権威ある学者たちが、お茶を飲むとシミが増え、肌が黒くなり、しかも背が伸びないとまで書いている。その後イギリスが紅茶の国になったことを思えば、デタラメな御用論文だったのは自明のことだ。
 このところ、攻撃され続けている嗜好品がタバコだが、これもお茶や酒のときと同様、「からだに悪い」とされ、各種論文も揃えられ、今やその害に対する認識は「信仰」の域に達したと云えるだろう。
 もともとこのアイディアを最初に法制化したのはヒトラーだった。喫煙がガンを引き起こすとする医学論文が最初に出たのもドイツだが、これはむしろタバコを嫌うヒトラーにプレゼントされたと見るべきだろう。一九三三年、ヒトラーとムッソリーニとフランコ将軍は、ほぼ同時に公共の場での喫煙を法的に禁じる。
 国民の健康のため、という理屈は当時から一貫しているが、やはり今時の禁煙ブームにも政治的な思惑を読み取る必要があるだろう。もしも本当に健康を考えてくれるなら、緊急に規制すべきはどう考えても排ガスをだす車のほうだからである。
 アメリカは九十年代、増え続ける赤字をなんとかしようと四十の州が一丸となり、タバコ会社数社から賠償金を獲得することを思いついた。結局一九九七年、総額四百兆円以上を二十五年分割で支払わせる判決にこぎつけ、その後も五年間で七百兆円以上の賠償を命じる法案を可決するのだが、その際タバコ会社が「国民の健康を害しつづけた」ことを立証するため、タバコは絶対的な悪である必要が生じた。膨大な利益を誘導するために悪が作られる構造は、タリバンもタバコも同じである。アメリカが一方ではニコチンを純化し、薬にすることに躍起であることも忘れてはならない。
 あらゆる嗜好品は、おそらくその複雑微妙さゆえに生き残ってきた。複雑微妙なものを味わえない独善的な正義に、人はまだ懲りないのだろうか。
 今年、三月十八日から東北新幹線が全車両禁煙になったが、私は窓口で理由を訊いて驚いた。とにかく非喫煙者からの山のような投書なのだ。私はそこに現代を特徴づける「いじめ」も感じたが、同時にヒトラーを当時支持した盲目的熱意と同じものを感じて仕方なかった。人類が口にする物質が薬と毒に二分されるのではなく、嗜好品という文化が残ることを切に祈りたい。 

 

福島民報 2007年 4月17日 日曜論壇