厚労省の内部用語であった「後期高齢者」という言葉が表沙汰(ざた)に使われ、えらく不評だったのは記憶に新しいが、それが今度は「長寿」医療制度などと改名されたのだから、ちゃんちゃら可笑(おか)しい。
 命名については笑うしかないが、笑っていられないのはなによりその内実である。特例を除き、七十歳以上の人々は三カ月で転院を余儀なくされるため、入院時から次の病院を探すように言われる。二年以内に五つもの病院を転院した揚げ句、本人も家族も疲れ切って最期を迎えたりする。そうしてお寺にやってくるわけだから、当然お寺でも医療機関や介護施設などの悪口が出る。これは最近とみに増えてきた現実である。
 人間到る(ところ)青山あり、というのは、江戸末期に釈月性によって詠まれた詩の一節で、志が決まれば故郷以外のどこで死のうといいじゃないか、という意味だ。つまり青山とは、死んでもいいと思える場所のことである。しかし今の高齢者にとって、青山はどこにあるのだろう。
 この悪法ができた理由は、なにも難しいことではない。患者といえども客と考える人々が、(もう)かる客だけを相手にすれば経済的だと思い、三カ月を超える入院患者の包括保険点数を一気にさげたのである。その結果、どんな医療行為をしても保険から支払われるのは特別養護老人ホームの入居者なみの額面になってしまった。それを超えて入院を認めると、自己負担額は増えるが病院の収入は増えない。だから儲けたい病院はこの法律を遵守(じゆんしゆ)し、どんどん追い出すのである。
 以前から、療養型病院ではそうした制度もあったものの、二〇〇八年十月からはこれが一般病棟や急性期病棟にまで拡大された。その結果、ガンの末期で次の病院が見つからなくとも、儲からない客は遠慮なく追い出されることになった。私の叔父もそんな目に遭った人で、痛かったら連絡してくださいと言われて退院し、痛くて自宅から連絡したら「四日後に来てください」と言われた。
 むろんこれを明らかな悪法と認識し、闘っている医師たちもいる。儲からない客でも全体でカバーしようという仁術の病院長たちのほかに、福島医大では地域・家庭医療という講座が設けられ、幾つもの科を横断的に学び、往診もする医師たちを養成しようとしている。
 しかし悪法も法律である以上、そんな努力で根本的な解決はかなわないだろう。今は悪法だと思う人が多くとも、そのうちそれを当然と考える若い医師たちが出てくるかもしれない。
 今、私の手許(てもと)には、檀家(だんか)さんが最期まで書きつづった覚書がある。医療者や看護師さんたちの言動も細かくメモしてある。今、死んでもいいと思える病院はどこなのか、思案中だが、そんな結論を出すまえに、悪法の改正をひたすら願う。

福島民報 2010年 8月15日 日曜論壇