日曜論壇 目次
-------------------------------
第40回 急げど慌てず
第39回 大人と子供
第38回 計画病
第37回 「情報」という名の幽霊
第36回 死ねる病院はどこ?
第35回 墓地共用のすすめ
第34回 花散らぬ、嵐
第33回 七転び八起き
第32回 まもなくクランク・アップ
第31回 新作『阿修羅』のこと
第30回 さまざまな立場
第29回 生物多様性と多文化共生
第28回 団子と頭痛
第27回 さまざまな正月
第26回 金風
第25回 お寺のゴミ問題
第24回 私は裁きません!
第23回 なんのための改名か!
第22回 新しい郵便局にお願い
第21回 未然防止策?
第20回 奈落の月
第19回 ちょっと待って!
第18回 若冲展に思う
第17回 嗜好品という文化
第16回 約束
第15回 母から子への手紙
第14回 無鉄砲と、鉄砲
第13回 「小学校英語」必修化に反対!
第12回 木瓜と認知症
第11回 「満」と数え年
第10回 いくつもの春
第9回 ネコとヒトの教育
第8回 電話の電話、郵便の郵便
第7回 同期の不思議
第6回 御朱印コレクション
第5回 自燈明
第4回 帰りなん、いざ!
第3回 ウォーキング・サピエンス
第2回 形而上的おぼん
第1回 タケノコ狩りと自立
-------------------------------
情報化社会と
云
(
い
)
われて久しい。学生たちもこぞってパソコン(PC)を使い、世界中の情報を自由に取得できる時代になった…、かに思われているが、果たして本当にそうだろうか。
百歳以上で行方知れずの人々はどんどん増え、最終的な数さえ覚えていない。いったいどうしてこういうことになったのか、考えてみるのだが、様々な理由が複雑に絡まっているとはいえ、どうしても「情報」という嘘くさい言葉が何度も浮かぶのである。
PC画面にある「情報」には、すでに誰かの解釈が入り込んでいる。少なくとも文字や数字に置き換えられた「情報」には、善い悪い、望ましい望ましくないという判断がすでに加わっていると思ったほうがいい。それゆえ安心してすぐに「使える」のだろう。
お医者さんも舌や顔色より画面ばかり見る。聴診器を使えない医師も増えているようだ。要するに生身は複雑すぎるから、すでに「情報化」されたデータから診断しようというのである。
ゲーム機に熱中する子供の場合、この傾向はもっと激しい。大抵のゲームでは敵味方がはっきり区別できるから、そこで悩む必要はない。ところが現実に出会う人間は、敵か味方か、善い人か悪い人かがはっきりしないため、大いに戸惑うようなのである。
初めて坊さんという人種に遭遇した都会のゲーム少年の驚きと戸惑いを、今でも
憶
(
おも
)
いだす。こいつはいったい…、ワケのわからん呪文を唱え、頭には毛がなく、手には無数に連なった
珠
(
たま
)
をぶら下げているが、…あれは武器ではないのかと、不安そうにいつまでもゲーム機を放さず、ちらちらとこちらを伺い続けるのだった。
ああ、ナマが苦手なんだ…。私はそう思ったが、ナマゆえに変化し続ける現実を、人はそれぞれ自分で何度も何度も情報化しなくてはならない。その果てしない作業こそが、生きるということだし、そうして得た情報でさえすぐに古びるのが現実である。
子供はまぁしかし、すぐにナマのほうに
惹
(
ひ
)
かれるからいい。問題なのは、仕事といえばPCに向かうしかない大勢のおとなたちである。長年の習慣で、生身に向き合う気力さえ失ってしまい、画面上の「情報」の処理が仕事と思い込んでいる。入力した人も生身を見ず、情報が更新されないとすれば、そこには現実に存在しない人間まで大勢
闊歩
(
かつぽ
)
していることになる。坂本龍馬と一つ違いのお
爺
(
じい
)
さんも生きていたというではないか。
さあ、学生たちはインターネットに
繋
(
つな
)
げ、今日はどこの幽霊に出会っているのだろう。幽霊もいいけれど、ちょっと後ろを振り向いてはどうだろう。情報化さえできない秋空の雲の動きが、美しい。
福島民報 2010年 10月17日 日曜論壇