情報化社会と()われて久しい。学生たちもこぞってパソコン(PC)を使い、世界中の情報を自由に取得できる時代になった…、かに思われているが、果たして本当にそうだろうか。
 百歳以上で行方知れずの人々はどんどん増え、最終的な数さえ覚えていない。いったいどうしてこういうことになったのか、考えてみるのだが、様々な理由が複雑に絡まっているとはいえ、どうしても「情報」という嘘くさい言葉が何度も浮かぶのである。
 PC画面にある「情報」には、すでに誰かの解釈が入り込んでいる。少なくとも文字や数字に置き換えられた「情報」には、善い悪い、望ましい望ましくないという判断がすでに加わっていると思ったほうがいい。それゆえ安心してすぐに「使える」のだろう。
 お医者さんも舌や顔色より画面ばかり見る。聴診器を使えない医師も増えているようだ。要するに生身は複雑すぎるから、すでに「情報化」されたデータから診断しようというのである。
 ゲーム機に熱中する子供の場合、この傾向はもっと激しい。大抵のゲームでは敵味方がはっきり区別できるから、そこで悩む必要はない。ところが現実に出会う人間は、敵か味方か、善い人か悪い人かがはっきりしないため、大いに戸惑うようなのである。
 初めて坊さんという人種に遭遇した都会のゲーム少年の驚きと戸惑いを、今でも(おも)いだす。こいつはいったい…、ワケのわからん呪文を唱え、頭には毛がなく、手には無数に連なった(たま)をぶら下げているが、…あれは武器ではないのかと、不安そうにいつまでもゲーム機を放さず、ちらちらとこちらを伺い続けるのだった。
 ああ、ナマが苦手なんだ…。私はそう思ったが、ナマゆえに変化し続ける現実を、人はそれぞれ自分で何度も何度も情報化しなくてはならない。その果てしない作業こそが、生きるということだし、そうして得た情報でさえすぐに古びるのが現実である。
 子供はまぁしかし、すぐにナマのほうに()かれるからいい。問題なのは、仕事といえばPCに向かうしかない大勢のおとなたちである。長年の習慣で、生身に向き合う気力さえ失ってしまい、画面上の「情報」の処理が仕事と思い込んでいる。入力した人も生身を見ず、情報が更新されないとすれば、そこには現実に存在しない人間まで大勢闊歩(かつぽ)していることになる。坂本龍馬と一つ違いのお(じい)さんも生きていたというではないか。
 さあ、学生たちはインターネットに(つな)げ、今日はどこの幽霊に出会っているのだろう。幽霊もいいけれど、ちょっと後ろを振り向いてはどうだろう。情報化さえできない秋空の雲の動きが、美しい。

福島民報 2010年 10月17日 日曜論壇