このところ、死後のことなどを考えるのがブームのようだ。「死」そのもののイメージが湧きにくいため、どうしても死後のことばかり考えるのだろうが、この両者は大きく隔たっている。
 葬儀は身内だけでいいとか、お墓はもう申し込んだし、葬儀屋も会員になっているなど、先行きが不安なだけにあれこれ準備したくなるのも分からないではないが、ちょっと待って、と言いたくなることが多い。細かい周到な計画もいいけれど、自分がその場に居ないということをちゃんと認識しているのだろうか。他人事(ひとごと)ながらそんなことが心配になってしまうのである。
 先日も、京都で生前に墓地を契約していて亡くなった人の遺族が、すぐに合葬されるなんて了承できないとして、墓地経営者を法的な手段で訴えた。本人は、すぐに合葬されることを了解し、合意のうえで契約していたのに、である。
 お墓は自分でお参りするものではない。お葬式も自分で喪主になることはできない。それなのに、その内容を、どうして細かいところまで自分で決めてしまえると思うのだろう。
 ここには、「計画病」という現代人の深い病が感じられる。
 なんでも予定や計画を緻密に立てることが称讃(しようさん)される。まだ小学生の幼い子供にまで将来の計画を言わせるのと同じ病理が、潜んでいるような気がする。
 しかし、未来は刻一刻新たな材料を取り込みつつ変化し続ける。現状での結論などそう長()ちしないのは明らかなのだ。まして死後のこととなれば、本人には到底分からないはずである。その分からない未来を、勝手に文書にしたり約束したりするから、あとで重大な問題になるのではないか。
 そのような文書のことを、現政権は「マニフェスト」と呼んで重視した。だからこそ、予測もつかなかった事態への対応がひどく遅れてしまったのではないか。文書との整合性など気にしていたら、判断が遅れるのは当然だろう。
 計画や目標と呼んで世間が(たた)えるものを、禅では「予断」と呼んで、「もつな」と云う。予断なく無心で向き合い、どのような事態にも即座に対応するのが観音力というものだ。
 観音さまの智慧(ちえ)は無理だとしても、誰しも自分の未来を細かく決めるのはいい加減に止めたほうがいい。
 この「からだ」だって、今は「私」が管理して使わせていただいているが、未来のことまでは分からない。自分のものと錯覚してあんまり未来を決め込むと、あとの人々が困るだけだ。どだい、「いのち」を自分だけのものだと思うのが大きな勘違いなのである。


福島民報 2010年 12月19日 日曜論壇