このところ、滋賀県大津市の中二少年の自殺をめぐり、報道が盛んである。「いじめ」の有無について、教職員たちが話し合った形跡もあるが、実効のある予防策を講じることはできなかった。
こうした問題が起きると、いつも教育委員会の責任が問われる。私も三春町の教育委員を二期務めさせていただいたが、教育委員会にその責任を期待するのは無理だろうと思う。ほとんどボランティアに近いような組織で、年に何度かの学校訪問はあるものの、そこでは例えばトイレの修理とか校舎の改修など、予算要求に終始すると言ってもいい。校内生徒同士の問題など、よほどの事件がなければ話題にはならないのである。
各学校で使う教科書を選定するのは、教育委員会の重要な仕事であるはずだが、それさえ実際には関与できなかった。どこで、誰が、選んでいるのか、せめてそれくらい教えてほしいと願い出てみたが、「それは言えない」と、公式に拒絶された。会議でも事後承諾の多さに毎回呆れる。要するに、教育委員会とは、そうした組織によってきちんと検証しているという形をとるための、念入りな「飾り」なのである。 法令では、教育委員長が委員会の長であり、教育長とはその事務局長とされている。しかし学校現場をよく知る元校長先生などが教育長になることが多く、現場を知らない職業人である委員たちは、ますます「飾り度」が高くなる。むろん教育委員会の管轄は、学校教育のみならず、社会教育、生涯教育なども含むわけだが、だからといって学校教育に手が回らない言い訳にはならない。いや、そうして手が回らない組織にわざわざしているように思えることこそ問題なのである。
時間をもてあましているお年寄りは大勢いる。「いじめ防止」に限らず、少し「おっさん」や「おばさん」の力を結集してみてはどうだろう。有川浩の小説『三匹のおっさん』では、同じ地域に住む昔の同級生三人が地域のさまざまな問題に取り組み、痛快に解決していく。校長の了承を得て、校内で飼育するカモの虐待問題などにも取り組むのである。
むろん小説のように見事な解決ばかりを期待することはできない。しかし社会そのものが持っている犯罪の抑止力を、学校という聖域にこそ投入する必要がある。平成十三年に大阪府池田市の小学校で起きた無差別殺傷事件以後、文科省は学校を閉じることにした。そして閉じた聖域が新たな危機を増殖させているのだ。
少なくとも、今のままの教育委員会では存在する意味がない。メンバーの問題ではなく、より実質的な機能と権限を持った集団に作り直してほしいのだ。一昨年、県内小中学校でのいじめは二百三十二件。被災後の減少は信じたいが、私が願うのはもっと根本的な組織改革なのである。
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