恐れていた「共通番号法」がとうとう参議院で可決され、成立してしまった。これだけ問題点が指摘され、先行実施している米国での犯罪利用状況まで分かっているのに、いったい国会という場所では何が審議されているのだろう。
東日本大震災を経て、小さな規模の顔の見える行政こそ、いざという時の頼りだと実感した。顔の見える行政の端緒になるのは、何といっても窓口での言葉のやりとり、顔を見ながらの普通の会話である。職員と町村民同士がお互い家族のことまで知っていたりするから、震災の時にもきめ細かい個別な対応が可能だったのである。
震災の前年夏、全国の住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)のデータに、百歳以上どころか江戸時代生まれの人々まで大勢生き残っていることが発覚した。これもデータを入れたら安心し、現場で確認する努力を全くしていなかったせいで起きた悲劇、いや喜劇に違いない。
「マイナンバー」と呼ばれるこの個人番号をもつことのメリットは、一般国民にとってはわずかに一部の申請手続きが簡単になるだけだ。一方、行政機関の方は、都合九十三項目もの個人情報が管理できることになり、給料や納税記録、所有不動産の情報の情報、医療費の記録、失業保険の給付状況など、カード一枚ですぐに分かるようになるのだ。
これほど盗みがいのある情報もないだろう。つまり行政機関にとっての便利さは、そのまま盗まれた場合の破格のリスクになるのである。
今のところ、利用できるのは行政機関に限るとしているが、三年後の見直しを手ぐすね引いて待っている企業も多いだろう。納税額まで分かるのだから、それによる差別化も間違いなく起こる。むろん、泥棒は見直しなど待たずに鋭意努力し、詐欺や「なりすまし」を早々に始めるはずである。
結局、国民がそんな危険に晒されることよりも、行政の手間を省くことのほうが大事だというのが国会の結論らしい。
いったい、東日本大震災を経験した人々の国会が、なにゆえそれほどに、国民の顔を見るまいとするのだろう。
国民総背番号制と言われたときは反発されたが、「マイナンバー」という耳当たりの良さで通ったのだろうか。しかしこの制度、つまりは人間の識別を、家畜と同じように焼き印でするということではないか。一目で出身や肉質や餌の内容まで分かってしまう。そういえば、「ブランド」という誇らしげな言葉の語源もこの焼き印だった。
また必ず起きる震災でパソコンが動かなくなり、住民の顔をさらに知らなくなった行政が、今回よりも無力をさらけだすのは間違いない。誰が主導したのかは知らないが、要は非常時を考えず、何をおいても平時の手間暇を惜しもうという情けない話である。
全国で唯一、住基ネットにさえつないでいない矢祭町が、初夏の清風のなかで輝いてみえる。
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