日曜論壇 目次
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第57回 「中間」貯蔵施設の行方
第56回 恵方巻き
第55回 「見識」から「厳罰」へ
第54回 オリンピックと原発
第53回 徳島にて
第52回 「マイナンバー」要らない!!
第51回 春が来た!
第50回 高橋亨平先生の思い
第49回 仮設のSさん
第48回 全国の線量調査結果
第47回 教育委員会という「飾り」
第46回 こどもの日の祈り
第45回 悲しみの底
第44回 ダルマの一文字
第43回 原発とTPP
第42回 「裸の王様」と、次の王様
第41回 人牛同病
第40回 急げど慌てず
第39回 大人と子供
第38回 計画病
第37回 「情報」という名の幽霊
第36回 死ねる病院はどこ?
第35回 墓地共用のすすめ
第34回 花散らぬ、嵐
第33回 七転び八起き
第32回 まもなくクランク・アップ
第31回 新作『阿修羅』のこと
第30回 さまざまな立場
第29回 生物多様性と多文化共生
第28回 団子と頭痛
第27回 さまざまな正月
第26回 金風
第25回 お寺のゴミ問題
第24回 私は裁きません!
第23回 なんのための改名か!
第22回 新しい郵便局にお願い
第21回 未然防止策?
第20回 奈落の月
第19回 ちょっと待って!
第18回 若冲展に思う
第17回 嗜好品という文化
第16回 約束
第15回 母から子への手紙
第14回 無鉄砲と、鉄砲
第13回 「小学校英語」必修化に反対!
第12回 木瓜と認知症
第11回 「満」と数え年
第10回 いくつもの春
第9回 ネコとヒトの教育
第8回 電話の電話、郵便の郵便
第7回 同期の不思議
第6回 御朱印コレクション
第5回 自燈明
第4回 帰りなん、いざ!
第3回 ウォーキング・サピエンス
第2回 形而上的おぼん
第1回 タケノコ狩りと自立
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福島県議会も福島県も、放射性廃棄物の貯蔵については、一旦双葉郡の大熊町や双葉町などで「中間」貯蔵するものの、三十年以内に県外に持っていくという条件で話を進めつつある。
しかしいったい、どこへ持っていくことが可能だというのだろう。
もしも三十年後、やっぱりどこも受け容れてくれません、ということになったら、どうするのだろう。
これは二○一二年の三月、県の主催したシンポジウムで私が佐藤雄平知事に質問したとおりの疑問である。
三十年後、といえば誰も責任をとれる立場の人はいない。そんな約束を信じるんですか、と私は知事に訊いた。すると知事は、「信じるしかないでしょう」と答えたのである。
政治家として、そうあってほしいという願いは解らないではない。だから法制化してほしいということなのだろう。しかし代替え地が見つからなければ法律があっても話は始まらないのである。
なしくずしに「永久」貯蔵施設にされるのは、誰でも嫌だろう。私もそれは嫌だし、だからこそ、進んで「永久」になっても支障ない施設を作ってほしいと思うのだ。それが被災地としての雄々しき決断だと思うのだが、如何だろうか。
この問題の根底にはいわゆる「迷惑施設」への一般的市民感情が横たわっている。つまり、そういう施設が必要であることは分かるけれど、自分の家の近くは嫌だ、という考え方である。
昔はそんな考え方を表明すると、身勝手と言われた。公のために私を滅することが普通に行なわれた時代には、ある種の自己犠牲がさまざまな問題を解決してくれたのである。しかし今や「人権の時代」、自分以外の誰にも自己犠牲を求めることは難しい。いや、自分自身でさえ、そうせずに済む生き方を探っている時代ではないか。
だからこそ「県外へ」と、県や議会も望むのだろうが、同じ権利は県外の人々のほうがもっと強く主張できることを忘れてはいけない。
朝、登校して教室に行ったら、誰のせいでもないゴミが教室にあったとしよう。誰もが嫌がるたぐいのゴミならば、どうすることが望ましいのか、中学生の道徳の問題として考えてみてはどうだろう。
なくせないなら減容化の研究も必要になる。また、根本的にそのゴミを出した源をどうするか、自らに問い詰めなくてはなるまい。そしてそれが本当にゴミなのか、という議論も起こるかもしれない。道徳だけでなく、理科や社会の学びにもなるではないか。
いずれにしてもありえないのは、どこか別な教室に持っていけばいい、という話である。そんなことを校長先生に訴えるよりも、教室内で深めるべき議論があるのではないか。
福島民報 2014年 4月13日 日曜論壇