討ち入りの日の選挙が呆気なく終わった。呆気なくというのは、予想通りの結果と共に、ということである。
 今回の選挙で自民党は、議論のテーマを「アベノミクスの是非」に絞り込んだ。「経済の復興は、大切ですか、そうでもないですか」という馬鹿馬鹿しい二元論に、である。戦略の勝利であろう。
 そりゃあ経済は大切ですが、他に原発の再稼働問題もあるし、特定秘密保護法の行方も気がかりだし、集団的自衛権や憲法改正についても議論が尽くされていない……、それが多くの有権者の見方ではなかっただろうか。しかしそれらは論点にされていないのである。
 論点にされていない問題に目くじら立てても筋違いだし、まずは論点について考えなくてはなるまい、という良識が、与党の大勝を招いた。私はそう思うのだが、如何だろうか。
 だいたい、今回の選挙は投票率が戦後最低だった。理由は単純ではないだろうが、一つ浮かぶのは自分が投票に行かなくても体制に影響はないだろうと諦めである。つまり、現在の与党に不満があったとしても、ならばこの党だ、と誰もが思う政党がない。きっとみんなそう思ってるだろう、どうせ与党が勝つんだと、みんなが思っていたのである。
 共産党躍進、という結果は、共産党に投票する人々の動機が初めから違っていることを如実に示した。失礼ながら、彼はおそらく体制への影響など関係なく、とにかく一票の権利を確実に行使したのである。
 そろそろ選挙権という権利を、根本的に考え直すべきではないだろうか。
 現状では、二十歳になったら自動的に与えられるこの権利、どう見ても義務としか思えない。、昔のように納税額などで振り分けるのは論外だが、少なくとも自分は選挙に関わりたいと、意思表示した人だけの特権にしたらどうだろう。むろん、投票日は日曜や祭日にせず、平日にする。そして選挙権のある人だけが、投票後、その日を休日にできるのである。
 今回、私は講演のため、期日前投票をしたのだが、そこでいつもながら戸惑ったことがある。例の最高裁判所の裁判官についての国民審査である。五人の名前が列挙してあるのだが、彼らの名前や仕事ぶりを知っている人々がいったいどれだけいるというのだろう。恥ずかしながら私は誰のことも殆んど知らない。そんな人間に、審査する「権利」があるのだろうか。いたずらで付けた「×」まで数えられる審査がまっとうな国民審査とは思えない。
 国会議員の選挙も含め、国民がきちんと「権利」を行使できる選挙法を再考して欲しい。事実上の義務を名前だけの権利と呼ぶのを止めない限り、投票率は下げ止まらない気がする。 

 
福島民報 2014年 12月21日 日曜論壇