このところとみに、人ではなく書類を信じる風潮が強まっている。なにか事件が起こるたびに、必要な書類を増やせば安全が確保でき、犯罪も予防でき、計画どおり事が進むと信じているようだ。この国は、今や「書類教」の敬虔な信者である。
 「働く」という言葉が、机に向かってパソコンを打つ意味になっておそらく二十年ちかく経つ。だからこそ、どんどん書類を作らせるにかぎる、ということなのだろうか。デスクワークなどなかったはずの大工さんまで、現場から戻ると今日の進捗と明日の計画をインプットするよう言われ、農業者さえ、作物に添えてその収穫までに使った肥料や農薬などのリストを添付しなくてはならない。知り合いの校長先生も、提出すべき書類をぜんぶ真面目に書いてたら教育に携わる時間なんてありませんよと歎いていた。
 むろん手書きでもいけなくはないのだろうが、それは却って手間ひまがかかるからパソコンを使う。ああ、小学校からパソコンを習っていてよかったと、若い人が思う仕掛けである。
 しかしこの書類の横溢、ひとえにそれをチェックする人々の都合である。自分はこのように書類を出させてきちんとチェックしていると、示したいのだ。それは国や行政の場合も多いし、会社の場合もある。
 しかもそのチェックは集約的に行いたいということで、専門の部署にまわすことになる。要するにチェックされる人を見たこともない人がチェックするから、書類がなお増えるのである。郵便局の本人確認のための書類など、その最たる例だろう。
 しかし、じつは書類ほど偽造できるものはない。いや、皆がバカバカしい、煩わしいと思っているから、むしろいい加減な書類が多いのではないだろうか。だいたいさっきの校長先生じゃなくとも、専門職でもないかぎり、出された書類を全部読んでいたら他の仕事ができないはずである。オウム事件以後、すべての宗教法人は各都道府県の文書課に毎年役員名簿や収支計算書、あるいは財産目録の書類を提出しなくてはならないのだが、先日知り合いの文書課の人に会ったから訊いてみた。「本当に全部の書類に目を通すんですか?」すると彼、悪びれもせず「そんなこと、できるはずないじゃないですか」と答えた。読めない書類を毎年毎年提出させているのである。これもひとえに、我々は二度とオウム事件のようなことが起こらないように、ちゃんとチェックしているんですよ、というポーズのために他ならない。書いてあることがウソでも、そんなチェックはできるはずがないのである。
 じつは先日も、郵便局に口座を作りに行ったら、 同じ個人名義の口座は二つ作れないので、「○○会」のような名義にしてはどうかと言われた。そんな会がないのは、その職員も承知である。会としての口座を作るには本人を証明する免許証などの証拠と、会則が要るという。「え、会則?」と困惑すると、「雛形がありますから」とA4のプリントを渡してくれるではないか。早速私は家に戻り、パソコンを使って会則を偽造した。目的、所在地、役員の選任法や任期など、すべて雛形に沿って適当に作ってしまったのである。一時間後に私はその会の通帳を持っていた。要するに職員も、決まりのほうが悪いと思っているのだろうウソと知りつつ、書類さえ整えたら口座を作ってくれたのである。
 現場の職員をどうか叱らないでいただきたい。彼は自分という人間がまったく信用されていないこのシステムに、順応できないまともな人間なだけだ。いわばこれは、書類だけを信じるシステムの、当然の末路なのである。

 こういう書類が日本中のあちこちに読まれもせず堆く積まれているのが見えるようだ。貴重な木を伐採して作られた紙には、ただ通過するだけのためにウソがプリントされ、わざわざ電気代をかけてシュレッダーで裁断される。しかし裁断してもしてもウソだらけの書類は際限もなく届き続けるのである。
 書類の山の前で跪き、ひたすらに「書類さま」を礼拝する人々。こんな莫迦な新興宗教が、今後も生き延びていくのだろうか。

中日新聞 2008年7月13日文化面
東京新聞 2008年8月12日夕刊 「生きる」