其の拾四  
     
    世の中には本当に凄い人がいるものである。
 二月にテレビ番組収録のため、ロバート・キャンベル氏を迎えたときのことだ。玄関に立ったキャンベル氏は、通常日本人でもほとんど読めない衝立の文字を、すらりと読んだ。別に私が質問したわけではない。ただ衝立として置かれているのだし、そういう興味を向けるべきものだと、自然に思われたのだろう。こういうのが本当の「教養」というものに違いない。
 その文字は「関」で、じつは「玄関」のもとになった禅語である。妙心寺派管長だった古川大航老師が九十八歳で書かれた練達の書なのだ。亡くなる二ヵ月前にそれを書いたというのも驚異的だったが、すんなり読んだキャンベル氏にはもっと驚いた。
 度肝を抜かれたまま書院にお通しすると、まず掛け軸をご覧になり、「雪深百福兆」の軸をじっと眺めてから。今度は篆書で彫られた落款を苦もなく読まれたのである。「無文というのはどなたですか?」
 それはやはり妙心寺派の管長をされた山田無文老師の書だった。私がひとしきりその説明をしおえると、キャンベル氏がふいにおっしゃった。「百福って、ふきのとうですか」
 これにはじつは、腰を抜かさんばかり驚いた。仕事もあるのでその場で腰を抜かすわけにもいかず、控えめに仰け反っただけだが、私の内心は大震災以来最大限の動揺を記録していたのである。
 通常、「雪深くして百福兆す」といえば、梅の蕾のイメージだろう。深く考えるまでもなく、私はそうだと思い込んできた。しかし言われてみれば、ふきのとうもそうだし、福寿草も水仙もそうではないか。いや、食べられるふきのとうこそ最も喜ばしい福かもしれない。
 私は一陣の春風がキャンベル先生のほうから吹いてくるのを感じた。長年の桎梏から解放された気分でもあった。
 放映された時間の何倍も私たちは話し続けたのだが、国会議員でも「先生」と呼ばない私が、本当に自然に「キャンベル先生」あるいは「先生」と呼んでいたのである。それ以外、呼びようがないではないか!
 事前に読んでくださった『光の山』(新潮社刊)の読み込みにも驚き、私は驚きっぱなしのまま先生を見送ると、すぐに御著書を注文してしまった。
 その晩、完璧な日本語でお礼のメイルをくださったキャンベル先生は、お勧めの落語『あたま山』のアニメヴァージョンが見られるYouTubeのサイトを紹介してくださった。キャンベル先生に会った高揚感と『あたま山』の昂奮とが綯い交ぜになり、その日はなかなか寝つけなかった、と書きたいところだが、じつはよく眠れた。


 
東京新聞 2013年5月4日/中日新聞 2013年8月18日【生活面】 
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