其の参拾四 | ||
十二月には「忘」年会が幾つもあり、一月になると今度は「新」年会がある。日本人が宴会好きなのは確かだが、どうもこの「忘」れて「新」たにするというやり方がじつに日本的である。 中国人に「忘年会」という文字を見せると、年齢に関係ない無礼講だと思うらしい。たしかに忘年会も無礼講のような集まりだが、何を「忘」れるのか、と考えると、やはり年齢ではなく「この一年の苦労」なのだろう。 思えば日本人の挨拶じたい、お辞儀して直近の過去を忘れ、新たな「今」に向き合う作法だし、「今日は」は「今晩は」という挨拶言葉も、前日や昼間との連続性を絶ち切り、新たな気持ちで今日や今晩を迎えようとしている。 立礼は七世紀後半に天武天皇が詔で定め、「今日は」の原型に当たる「こんにった」が室町時代に登場する。現在まで続く言わば「一から出直す」形の挨拶が、室町時代にできあがったのである。 ちょうどその頃、後に出家する伏見宮貞成親王が、『 よく、忘れてばかりいるから日本人は建設的に事を進められない、というような意見を耳にする。しかし日々の辛さを忘れ、憂さを晴らすことは、本人の精神衛生上も、周囲の人々にとっても、意味深いことではないだろうか。 東日本大震災の記憶も、風化した、忘れられた、と嘆く人々を見かけるが、きっちり学んだり体験したりしたことを、そう簡単に忘れられるはずもない。忘れたとすれば、それは忘れた方がいい些細なことか、忘れたいほど切実なことだろうと思う。 人は、忘れなくては前に進めないという体験を、不如意にしてしまうことがある。我々の無意識は、もしかすると忘れるべき事柄を自動的に選別し、忘れさせるように働くのではないだろうか。 かくして、身につき、忘れないことだけが大切なこと、という自然選択の恩恵を、我々は享受できる。忘れるからこそ憶いだす喜びも味わう。これぞコンピューターにはあり得ない人間だけの能力だ。 所詮、宴会で忘れる程度のことは、放っておいても忘れるのである。忘れないよう気遣うよりも、余計なことを忘れる努力をしたほうがいい。やがて暮れることさえ忘れるから、明けただけで目出度いのではないか。 明けまして、本当におめでとうございます。 |
||
東京新聞 2015年1月3日/中日新聞 2015年1月17日【生活面】 | ||
前回へ | ||