其の四拾壱  
     
   先日、京都大学こころの未来研究センターの主催で、東日本大震災後の現状と問題点などをさまざまな観点で検討するシンポジウムが開かれた。題して「こころの再生に向けて」。
 私は福島県民の現状を、平安朝に流行した「あはれ」という言葉の多様性に(なぞら)え、「うれしい」と「かなしい」に(また)がるディープ・インパクトと捉えて説明した。
 実際、「あはれ」という言葉は当時あまりにも多用され、状況判断で意味を推測するしないほど、曖昧で情緒的な言葉になっていたのである。
 今でいえば何でもかんでも「かわいい!」と表現されるのにも似ている。そうした状況を、元武士であった西行法師はひどく厭がり、次のような歌を詠む。

 都にて月をあはれとおもひしは数よりほかのすさびなりけり

 要するに、月をあはれと詠ったりするのは、自然から離れた都人たちの暇つぶし(すさび)ではないか、というのだが、じつに厳しい。そして言葉の曖昧さを嫌った武士たちは、やがて「あはれ」から肯定的な感情だけを抽出し、「あっばれ(遖)」という言葉を使うようになっていくのである。
 私としては、この「あはれ」と「あっぱれ」が交錯し、「あっぱれ」がやや空回りする福島県の現状を報告したかったのである。
 さてこの席でのことだが、高野山大学の井上ウィマラ氏の報告が面白かった。具体的には高野山が支援し、復活した気仙沼の「復興太鼓」にまつわる話だが、タイトルは「マインドフルネスとレジリエンスの視点から」、じつにアップ・トウ・デイトである。
 しかしこれ、無理に翻訳すれば「三昧」と「加持」のことではないか。「こころの再生」という観点から、宗教の古典的な力を引き出し、現代的に話してくださったように思えたのである。
 彼からのその後のメイルには、「加持」の語源の「adhisthana」には、決意する意味があるという。加持祈祷といえば迷信のように思う人もいるかもしれないが、「持」とは精神集中を保つこと、「加」とはそれによって起こる超越的な力の付与である。当然それは強い決意によって叶うということだろう。そんなふうに逐語的に考えれば、ほとんどの芸術作品は「加持の力」を借りているのではないか。
 そういえば、まもなく(六日~十二日)北海道は北見の「勉強屋バークレー」二階で、私の宿年の友人の二人展が開かれる。『中陰の花』文庫版の表紙を描いてくれた伊藤彰規さんと陶芸家の矢萩典行さんだが、ここにも「加持の力」が大いに発揮されている。お盆前で私は行けないが、可能な方は是非行ってみていただきたい。

二人展「絵画&陶 -静寂の声に託して-」


東京新聞 2015年8月1日/中日新聞 2015年8月15日【生活面】 
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