原爆には反対したけれども、原子力の平和利用に賛成したというのが戦後の50年代、60年代の話です。その時期の学者の書いたものを見ていると、物理学者は平和利用ということに明らかに過大な期待をしていた。核大国がそういう宣伝をしたわけですね。 
 理想のエネルギーで人類の未来はバラ色なんだということを、アメリカやソビエトが相争いながら同じ宣伝をしている。それに対して、まさに自分のやっている学問が大きな力を発揮できる時だ、と物理学者が前のめりになっている。
 1954年にビキニの核実験があり、非常に大きな警告があった。にもかかわらず前のめりが続いていた。どうしてそうなったのかを考えるヒントがそこにはあると思います。
 湯川秀樹さんがノ―ベル物理学賞をもらったのは1949年です。湯川さんに承認をもらうことが推進側にとっては非常に大きかったようですね。日本で初めてノーベル賞をもらった人ですから、その世界に優秀な人間がどんどん入っていったということもあっただろうと思います。
 学者によって態度が違うようですね。湯川さんと朝永振一郎さんでは少し違う。若い方では武谷三男さんとか坂田昌一さんがかなり高い意識を持ってその問題に向かっていますが、前のめりだった。
 そういうことへの危機意識を強く持っていたのは、アインシュタインであり、ハイゼンベルクであり、あるいは朝永さんであったということを唐木順三という人が言っています。
 原発立地4町の中で、役場を埼玉県の加須市につくったので全くバラバラになってしまったのが双葉町です。双葉町の人たちが8カ月ぶりに集まるので、そこで元気が出るような話をしてほしいといわれ郡山に行ってきました。みんなで久しぶりに温泉に集まって旧交を温めたんです。
 飯舘村の村長さんが二重の住民票というやり方を国に要求したんですね。飯舘村に属しながら今お世話になっている行政にも属して、福祉などのサービスも受けられる形にしてもらったので、双葉町の人も今いるところにお世話になりながら所属は双葉町という状態が続いている。
 第1回の復興構想会議の時に「これはユダヤ人状態ですよ。彼らの町、村というのをどうしていくのか」と聞きました。チェルノブイリの場合は無数とも言える町や村が無くなった。「もとこういう町がありました」という看板だけがある。そうしてしまうつもりなのかを聞いたんです。
 第13回の集まりが久しぶりにあって、同じことを復興大臣に聞いたけれども、答えられない。新たに国有地を切り開いて、双葉町の人はここに集まってはどうかというような場所を用意しなかったならば、町は無くなります。
 今住んでいるところで新しい仕事を始めている人もいるわけですから、溶け込んでしまう。全員が町や村を離れて今いるところに溶け込んでしまったら、事実上、元の町や村は無くなります。そうするつもりなのかどうなのかを聞いたわけです。重大な問題だとい思います。
 チェルノブイリの場合は50万規模の都市を新しくつくって、そこに幾つかの市町村から強制移住してもらった。しかし、その準備もなさそうです。このままだと日本全県に散った5万8千人が溶け込んだままになる。元の町が無くなるかどうかは、手を打たなきゃいけないことだと思うんですけどね。
 福島大学副学長の清水修二さんが代表になってチェルノブイリに行って、帰ってこられての感想を新聞で読みました。チェルノブイリと日本では大きく状況が違う。チェルノブイリは元住んでいたところを早くに見限って、除染にお金をかけずに新しい場所に住む方針を採った。
 これは広い場所があるということもあるし、強制的な措置に従わざるを得ない住民の状況もあったと思います。除染などをやろうとしても、それだけのマンパワーや技術がなかったということもあるんですね。
 日本でも「早く疎開するべきだった」という方もしるし、「危険がないんだから残っているべきだ」という人もいる。その中で、取りあえず除染をしてみようということで、かなりのエネルギーが費やされています。
 これは、ある程度理にかなっている。というのは、日本で除染をやってみるとどういう効果があるかは、やってみないと分からない。日本の技術力でできることがあるかもしれない。その状況がある程度見えるまで先の見通しがつかない。
 好意的に解釈しているんですが、政府が優柔不断であるとも言えるけども、様子を見なければ分からないという面も少しはあるのではないか。
 一人の人間の中に分裂した気持ちがあります。戻りたい、戻りたいけれども戻れないという。飯舘村あたりでも飲んで酔うと大げんかになるというんです。飯舘村は2年で戻ると村長が宣言している。しかし、戻れるはずがあるかよという人たちがいる。
 飲んだ時に「戻れるはずあるかよ」と言われると、自分の中で必死に「戻るんだ」という気持ちに仕立てているのに、それを言われたら聞き逃せない。それで大げんかになるらしい。
 除染を進めることと、代替地をつくることは同時並行でやらないとどうしようもないと思います。除染が済むまでお世話になっている土地にずっと居続けたら、そこに根が生えてしまいます。
 無理やり引き離されるような形で故郷から離れたわけですから、そのフォローとして両方必要なんだと思います。

 先が見えないことが非常につらい。政府の指導層が見通しをあまり述べなさ過ぎる気がします。
 例えば食品の暫定規制値。「暫定」なんだから「いつか」までのはずですね。それはおそらく1年ぐらいの意味だということは初めから分かっている。しかし、それについて、いつまでも言わない。ようやく秋になって来年の4月ごろには基準を厳しくするんだと言いました。早く言っていればだいぶ違う。
 学校の除染の20ミリシーベルトというのだって、ずっとそのままならたまらないとみんな思う。それをすぐ1ミリシーベルトに下げたりしましたが、長期的なビジョンを持ってしっかりとした方策を示すことができていない。
 それができるほど放射線のことがみんな分からないんじゃないですか。今回、本当に誰も知らないんだということがあらわになってきた気がします。
 最近になって26頭の牛を20キロ圏から捕獲し、牛の体内にセシウムがどんなふうに蓄積するのかを東北大学の福本教授がチームで調べ始めた。こんなことが分かってきたのは世界で初めてです。
 血中のセシウム濃度の何倍ぐらいがタンに行き、レバーに行き、と調べていくと、一番多いのは筋肉なんですね。そういうこともようやく分かってきた。
 例えば降ってきた放射性セシウムがコンクリートやゴムとかプラステチックには付着するけれども、アスファルトには付着しないということだって分からなかった。暗中模索なんだと思います。
 その通りだと思いますが、にもかかわらず、よく分かっているかのように話す専門家もいる。
 イギリスのセラフィ-ルドでは、いまだに家畜の線量が多いと食肉にはできず、元に戻して、安全なものを食べさせて出荷し直させるようなことをやっている。このイギリスの災害は1957年に起こっている。
30年後に発表したんですよね。
 隠しているんです。世界の原子力開発が信じられない隠蔽のもとに行われてきたということです。
 チェルノブイリが起こったので、それに便乗して発表した。あれを知った時に「国家って何なんだろう」とつくづく思いましたね。
 アメリカはかなり長い間、新しい原発は造らないでいる。これはアメリカの住民が原発は周辺住民や作業員に大きな被害があり、コスト的に見合わないことが分かっているわけで、だからアメリカは原発を海外に輸出してもうけようということをやってきた。
 それが情報の隠蔽とつながっている。その被害を日本は受けてきたわけですから、発展途上国にそのことを伝えるべきであって、「日本で原発でもうけることができないから、海外で売ってもうけよう」というのはほとんど詐欺に等しいと私は思いますね。
 長期的には世界中に放射性廃棄物をばらまくことになる。福島県が何十年の単位で考えていますが、おそらく何万年とか、もっと長い単位の事柄なので、そこまで考えると、もう成り立たないことを正直に認めるしかないんじゃないかと思いますね。

――現実をみれば、原子力の利用が危険であることは明らかです。しかし。そのことを言えるのは宗教者のような立場の人しかいないのではないか。そういう意味でも宗教が果たす役割は、現実的に大きな意味を持っていると思います。
 巨大なシステムになると、その土地との密着感はあまり考えられなくなってしまうけれども、寺は地域に根差した存在だし、神社や祭りもコミュニティーを支える存在だと思います。
 そのことは被災地を眺めると強く感じることで、ローカリズムというものを復活しないといけないのではないかという感じがすごくしています。
 電力や食べ物も含めて、ローカルな範囲の中で「自治」という方向は必ず必要になっていくだろうという気がします。巨大なシステムによって失われてきたものは自治ですよね。
 全日本仏教会が原発に依存しない生き方を宣言しました。「原発に依存する前のめりの生き方を改めましょう」という趣旨ですが、幾つかの宗派、仏教者もすでにその方向で見解を明らかにしています。
 原発でこれだけの被害が出てきたことは、日本の国の大きな方針に何か見誤りがあったと同時に、私たち自身の生き方も反省しなくてはならないことがある。
 アインシュタインも最初はナチスドイツに対抗するために原爆の製造をアメリカに要請した。しかし、ナチスが負けた後に日本に使われたことに非常なショックを覚えて、そこから平和運動に大変力を入れるようになります。その過程でガンジーに対する傾向を強めていったと言われています。
 まさにガンジーのスワラージ、つまり自治ですね。巨大技術によらない生活というものを見直さなくてはならない。アインシュタインにはそういう先見の明があった。戦争の中とはいえ、前のめりの科学技術によって世界を動かすことに自分が動いた。一度動かすと止まらない。そのことにおそらく相当な衝撃を受けた。アインシュタインやハイゼンベルクのような人たちは、そういう考えを持っていた。
 それに近い感じ方を日本の宗教者も持っていると思います。自分たちがこれまで歩んできた歩み方を振り返って、原発に対して問い掛け直すというやり方が宗教者としてはふさわしいのではないかと私も思っています。
ハイゼンベルクは晩年、仏教に傾倒していく。チベット仏教だったようですけれども。アインシュタインも東洋的なものをとても愛した方ですし、彼らのそういう傾向、自然観がおのずとブレーキを生んだということを考えれば、仏教はそういう方向を目指すのが自然なんじゃないでしょうか。
 玄侑さんが共鳴されている道教にしても、私の感じでは道教に近いところの多い神道にも、そういう可能性が十分にある。
 岩手では「災害復興カレンダー」ができました。岩手の芸能の写真を集めて、芸能の復興に役立てようという。これはまさに地域社会の自然と密着した世界観、生き方と合わせて復興を考えようということです。
 ですから、仏教の観点から言っても、神道の観点から言っても、新しい見方に転じていく文化資源が、われわれの受け継いだものの中にはたっぷりある。
 双葉町の場合もバラバラに住みながら、また集まろうということになった。集まったら何かしようというので、自分たちの町でずっとやってきたダルマ市をまたやってみないか。ダルマは「七転び八起き」だし、いいんじゃないか。祭りを契機にしてつながっていこうとしています。
 地域の共同体は、宗教とつながるような文化資質、生きがいの元になるようなものがそこにあれば、そのためだけでも人は帰ってくる。ぜひそういうところに目を向けてもらいたい。そこに地元の力を復興させていく可能性があると思います。

 
中外日報 2012年1月3日