幾つもの「面子」が絡んだ原発の情報開示。一方、皇室は沈黙を守っていた――。  
     
   二〇一一年十二月十七日、伊達市伏黒の仮設住宅近くの路上で、同住宅に独りで住んでいた五十九歳の男性が死亡した。翌日、福島医大法医学講座で司法解剖した結果、死因は凍死とされた。
 十九日の福島民報社会面に小さく載ったその記事から、私はしばらく目が離せなかった。記事には「事件性はない」との判断が記されているが、むろん直接的な殺人ではないにしても、この死を招いたものがいったい何だったのかと、どうしても考えてしまうのである。
 記事には男性が飯舘村からの避難者であること以外、飲んでいたのかどうかも、仕事があったのかどうかも書かれてはいない。五十九歳といえば、まだまだ働き盛りだったはずである。
 民報の一面トップには、政府が十八日に発表した「新たな避難指示区域」について、批判的な紙面が展開された。
 これまで福島第一原発の被災地域は、「警戒区域」「計画的避難区域」「屋内退避区域」などに分類されていたが(緊急時避難準備区域は九月末に解除)、同心円状に分けられたその区分が現実的でないとして、政府は早ければ来春四月一日にも、放射線量によって以下の三区域に分類し直すというのである。
 曰く、「避難指示解除準備区域」、「居住制限区域」、そして「帰還困難区域」である(ああ、ややこしい!)。
 避難指示解除準備区域は、年間20mSv未満の地区で、早急に帰還実現に向けた取り組みを行なう。居住制限区域は、年間20msv以上、50msv未満で、引き続き被曝低減をめざす。そして帰還困難区域は年間50mSv以上で、将来にわたって居住を制限するのを原則とする。
 当然、今回の区分けでも一つの行政が三分されることが予想される。そのことで、各市町村の首長たちは憤懣をあらわにする。浪江町の馬場有町長は「自衛隊による除染の評価すら出ていないのに、早すぎないか。被災者の立場に立っているのか」と語気を強めた。町の分断は許されない、とする考えからの発言である。
 大熊町の場合、この区分によれば、町の約半分の地点が「帰還困難区域」に分類される。渡辺利綱町長は「そもそも町民には戻る権利がある。町に住める環境づくりは国の義務だ」と突き放す(福島民報)。
 むろん、各首長は一枚岩ではない。はっきり言えば、各市町村の放射線量によって態度が違ってくる。ほとんどの地域で線量の低い田村市の冨塚宥暻市長にとっては、新区分になれば市内に警戒区域がなくなる。だからこそ、その後のことのほうがむしろ気になる。また町全体の線量が低い楢葉町の草野孝町長は、「見直しされれば、住民の帰還に向けて希望が持てる」と期待する。一方で福島第一原発の5、6号機が立地する双葉町の井戸川克隆町長は、町の多くが帰還困難区域になることを予想しつつ、町民の被曝を考えるとそれも致し方ないか、と唇を噛むのだった。
 ちょうど政府から枝野幸男経産相、細野豪志原発事故担当相、平野達男復興担当相を迎え、以上のような意見交換が福島県の代表を交え、市町村長との間でなされていたときだった。東北一円には前日に雪が降り、その日の晩に亡くなったらしい五十九歳の男性が、同じ福島市の郊外で解剖され、「凍死」と診断されていたのである。
 ずいぶん皮肉な符合を紹介してしまったが、どうもこのところ、私は国や県の考えていることが人々の気持ちから乖離しているような気がしてならない。それを象徴的に感じたのが、同じ紙面に載った以上二つの記事だったのである。避難住民の孤独な彷徨を、国や県は置き去りにしてはいないか。そんな不信感が、今回の稿の端緒であった。



 そもそも今回の新たな分類をするために、政府は十二月十六日に野田総理による記者会見を行ない、福島第一原発事故の収束を宣言した。
 へ?
 それが正直な感想である。
 原子炉内の水温が百度未満に抑えられ、大気への放射能の洩れが大幅に抑えられる、というのがステップ2の「冷温停止状態」だったはずだが、それが実現し、「事故そのものは収束に至ったと判断される」と総理は言うのである。
 いったい誰がいつ確認したのか?
 たしかに総理が言うように、現場作業員の「命を削るような」作業には敬意を表したい。しかし、つい二週間ほど前(十二月四日)には高濃度汚染水を処理する装置の土台のひび割れからストロンチウムを含む汚染水の流出が発覚し、慌てたばかりである。炉心溶融を起こした放射性物質の密閉もできてはおらず、何より線量が高すぎて、破損した燃料もプラント内も目視確認はできていないと、斑目春樹委員長も逃げ腰で述べている。
 それはそうだろう。溶け落ちた燃料付近の温度を測ることができないため、東電は空になった圧力容器底部の温度を目安に「全体として冷えている傾向にあるので、問題ない」などと言っているだけなのだ。増え続ける汚染の貯蔵タンクの場所確保も難しく、汚染水の海洋放出も容認されそうにない。今後汚染水の処分をどうするのかも、建屋内をどうやって除染し、燃料をどうやって取り出すのかも、まだ有効な方法は決まっていないのだ。いずれロボットによる遠隔操作になるにしても、そうした技術開発だってこれからなのである。ああ、またコンピューターの画面だけからの判断なのだろうなぁ……。どうしても私はそう思わずにはいられないのだった。
 想定外のことは他にもいろいろ起きている。
 十一月には処理した汚染水を流す樹脂製のホースに茅萱(ちがや)という草が刺さり、その穴から汚染水が漏れだした。全長4キロあるホースが、道路の脇や草地にじかに置かれていたせいらしいのだが、これも暫定的にポリエチレンのホースに交換しているものの、もっと長期的に使える設備は現在検討中である。
 また新聞での扱いは大きくはないが、じつは今、第一原発ばかりか第二原発までも、従業員の間でノロウィルスの感染が拡がっている。第一では十六日までに三菱重工の従業員を中心に52人が集団感染しており、十八日には第二原発でも30代の男性社員の感染が確認された。
 困難な状況ばかり申し上げてしまったが、事実なのだから仕方がない。そして野田総理は、おそらく以上のような事実を知ったうえで、それでもなお「事故収束宣言」をしたのである。なぜか。
 「世界中の皆さまに多大なご迷惑をかけましたが、原子炉の安定状態が達成され、不安を与えてきた要因が解消されました」
 野田総理はまず、国内外にこのように語りかけた。誰が聞いても、九月の国連総会での演説を思い起こすだろう。「年内を目処に、原子炉の冷温停止状態を実現すべく、全力を挙げています」そう、野田総理は世界に向けて宣言していたのである。「国際公約」とも言われた。
 言ったことの責任をとるために、現状はどうあれ収束宣言をする必要があった……。そう考えるのは穿ちすぎだろうか。
 あながちそれが穿ちすぎないとも思えないのは、総理はすでに十一月中旬にも収束宣言をしたかっららしい。しかしその矢先、十一月二日に2号機からキセノンが検出されたため、断念したというのである(朝日新聞)。今回十六日の「宣言」に当たっては、閣僚の一人が事前の根回しのため、文案を関係議員たちに配っている。その際、民主党の中堅議員は、「『原発の収束』とは、放射能が完全に放出されておらず、汚染水の処理も万全にできている状態を達成してから使うべきだ」と反対したが、その閣僚は「事故が収束しないと、日本に対する信頼が失われ続ける」と反論したらしい(同)。 
 事故が収束しないとマズイのは確かだが、だからといって収束したかどうか分からないものを収束したと宣言することが信頼に繋がるのだろうか。同じ意見は野党だけでなく民主党内にもあり、谷岡郁子参議院議員は「安全神話の第二幕を上げるようばもの」だと批判している。
「面子」という言葉が浮かぶ。
 面子よりも冷静な観察と実行こそが望まれる状況である。そしてなにより危惧されるのは、これ以後、何かあった時に情報がすんなり出てこなくなることだ。「事故収束の宣言までしてるのに、こんな発表をしたらマズイだろう」、そんな気分が無意識にはたらくのは当然ではないだろうか。
 もともと原発を巡る情報開示には、企業論理を裏切れない憾みがあった。主に東芝、日立、石川島播磨重工(現IHI)など、福島第一原発のプラント建設に関わった業者が現在の作業に、も当たっているため、企業にとってあまり不利益な情報は出したくないという心理が無意識にはたらいていたはずである。
 だから私は、復興構想会議においてもい「それ以外の業者を修復作業に加えてほしい」と主張した。今回図らずもノロウィルスへの感染から三菱重工社員が加わっていたことが判り、一面では安堵したのもだが、ほぼ同時に「政治的面子」というもっと厄介な圧力がかかることになってしまったのである。



 同様の「面子」のための勇み足は福島県においても起こった。
 佐藤雄平知事は十月十二日、原発周囲の作付けしなかった十一市町村を除く県内四十八市町村のコメについて、すべてが暫定基準値(1キログラムあたり500ベクレル)を下回ったことを受け、早々に「安全宣言」を行なった。
  あまりに早すぎる印象はあったものの、私は当時は嬉しがっていたことを否定はできない。しかしその後、二本松の旧小浜町を皮切りに、福島市の大波地区、渡利地区、伊達市の旧小国村、旧月舘町、二本松市の旧渋川村へと基準値超えのコメは拡大していった。十八日には新たに伊達市の旧掛田町の一軒から基準値を超える米袋が見つかり、いずれも販売自粛の処置が行なわれている。
 以前私は、東北大学の石井慶造教授の論文を引き、粘土粒子とセシウムが合体するとコメや野菜に吸い上げられない仕組みについて書いたが、どうも粘土粒子が充分でない田圃があっただけでなく、周囲の山の水が直接田圃に流れ込む土地もあったようなのである。
 JA全農福島の幹部は、検査で不検出(ND)だったコメだけを業者に出荷しているが、消費者に出荷しているが、消費者には敬遠されていると嘆く。検出されたコメはともかく、不検出のコメまで売れないというのは明らかに「風評被害」だが、これも県側が「面子」を重視しすぎ、早すぎる勇み足「宣言」をしてしまったせいではないか。県内あちこちの農家かた、「正月が越せない」と悲鳴のような声が聞こえてくる状況なのである。
もともと二本松市の三保恵一市長は、最初に旧小浜町のコメから500ベクレルのセシウムが検出された際、全袋検査を国に求めた。しかし農林水産省はこれに難色を示し、結局はそこから10キロ以上離れた旧渋川村からも検出されてしまった。二本松市の農政課長は「出るかもしれないと感じていた。残念だ」と肩を落とすのだが、そんな状況で国や県が惜しんだものは何なのだろう。名を惜しむのが「面子」だとするなら、お金や時間や労を惜しむことで結局は「面子」も潰れたのではないか。
 ちなみに我が三春町では、県の本調査が町内26ヶ所(旧大字各2ヶ所)だったことに飽き足りず、自主調査としてさらに53ヶ所を調べた。今でも「ベクレル調べるセンター」ではフル稼働で全農家(約千戸)のコメを調べ続けている。偶然降ってきた放射性物質の濃淡などに「面子」は関係ない。それが町民の正直な気分ではないだろうか。



 いったい、国や県などを強ばらせる面子とは何なのだろう。
 たとえば国は、五月の工程表改訂でようやく「循環注水冷却」に切り替えたが、これなども日本原子力学会が三月末には提案している。すぐに実行してくれていたら、二ヶ月は早く現状を迎えられただろうとの声も聞こえる。
 またタンカーを沖に横付けし、そこに汚染水を運ぶ方法も提案されているが、いまだ採用の気配はない。方法として何か問題があるのならそれなりの返答があってよさそうなものだが、提案した学者には何の返答もないらしい。
 あるいは事故当初、アメリカが全面的な支援を申し出たのを断ったのも、内閣官房に責任者が陣取ることを嫌ったからとも伝えられるが、そこにもつまらない「面子」が感じられないだろうか。
 もう一つ、私は復興構想会議の席上、支援いただいた各国への御礼と同時に、事故や放射性物資飛散についての正式な謝罪表明も早急にすべきではないかと申し上げた。しかし福山官房副長官(当時)は、御礼は外務省を通じ、各国メディアを使って行なったが、謝罪については事故の収束後と考えていると述べた。そこには国際法上のルールや訴訟問題も絡むのかもしれないし、私はそこで引き下がるしかなかったのだが、事故収束宣言がなされた後にそのようなことが為されたのかどうかは、私は寡聞にして知らない。
 実際、国内ではさまざまな裁判が始まっている。面子だけでなく、そうなるとあらゆる決定が裁判における判断基準にもなってくる。東電の賠償のやり方じたい、請求を受けて初めて賠償に腰を上げる形であるため、請求が不当に扱われれば提訴するしかないのだ。
 原発事故で休業を余儀なくされた浪江町のショッピングセンターを運営する3社が、東京電力に計約3億4千万円の損害賠償を求めて提訴した。東京地裁は十二月十六日、これまた「収束宣言」の日に、事故から八月末までの賠償金などを東電が支払う条件で和解勧告を行ない、これが一部成立している。原発事故をめぐる訴訟で初めての和解である。
 一方、十一月半ばには、二本松市のゴルフ場運営会社など2社が、東電に放射性物質の除去と損害賠償を求め、同じ東京地裁に提訴した。しかしこちらは敗訴し、即時抗告した。このとき東電は、放射性物質が「無主物」つまり誰のものでもないと主張し、判決でも「除染方法や廃棄物処理の在り方が確率していない」ため、東電に除去を命じることはできない、とされた。また客が来ない分の賠償についても、ゴルフ場の地上1メートルの放射線量はプレーに支障ない、として却下している。要するに文科省が子供の屋外活動を制限した値、毎時3.8μSv(年間20mSv)を下回っているから問題ないというのである。
 実際に寒風吹くきすさぶゴルフ場の芝生を眺めれば、誰でも「支障ない」とは言えないように思う。風評を一切無視した判決には怒りというより嗤いさえ浮かぶ。むろん放射性物質の除去といえば芝の張り替えになるだろうし、認められれば国や東電の大きな打撃になることは間違いない。学業優秀な裁判官の知識は、どうも国や東電の「面子」さえ斟酌しているかに思えるのだが、どうだろう。
 ところでここに登場した「無主物」とは奇妙な言葉だが、要は放射性物質の扱いを「唾」と見るか、「屁」と見るかの違いであるように思える。つまり唾を吐きかけたなら、たとえ故意でなくとも謝るべきだろうが、屁なら出物腫れ物だから仕方ないというわけだろう。巨大な「屁」をしても崩れない「面子」がもしもあるとするなら、それこそ国がいま守ろうとしているのかもしれない。
 世間はこれからこの巨大な「屁」をめぐり、際限のない争議を繰り返すことになるだろう。被災者の心理より何より、「面子」をかけた不毛な争いである。
 そういえば内閣府が、十一月になって「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」を立ち上げた。毎時ゼロから100mSvまでの低線量被曝の影響について、データもほとんどないのに話し合ってどうするのかと訝しんでいたのだが、要は政府がこれまで採った基準が正しかったと決議する必要があったのいではないか……。十二月の発表を見るとそうとしか思えない。日弁連が会議そのものの抜本的見直しを迫ったのも理解できる。学者によって意見の分かれるこの問題は、どんな学者を委員に選ぶかで結論が違ってしまうからである。
 科学的に分からない問題については、もとより政治的な決着などすべきではないのだと思う。しかしこの問題はあらゆる裁判の基準にもなってくる。また新たな三区域の根拠でもあるのだろう。
 ここにも政府の「面子」が関わっており、県もその速やかな決定を促していたようにも思えるのだが、如何だろうか。
 県は原発の「収束宣言」にこそ不満を示したもの、いったんそれが出されてしまうと自衛隊への撤退申請をしている。これも民意を反映しているとは思えない不思議な出来事であった。
 そうこうするうちに今度は厚労省が、二〇一二年から放射能についての基準を変えると発表した。放射性セシウムの食品基準を年間5mSvから1mSvに下げ、それにつれて一般食品(野菜・穀類・肉・卵・魚その他)は500ベクレルから100ベクレルに、飲料水は200ベクレルから10ベクレル、牛乳は200ベクレルから50ベクレルに改め、新たに乳児用食品の基準を50ベクレル以下と設定するというのである。(米と牛肉は今年十月から、大豆は来年一月から、その他は四月一日から移行の予定)
 何と申し上げたらいいのか困るが、要するに厚労省には厚労省の「面子」があるということだろう。ちなみに文科省は、学校給食についての基準を、500ベクレルから40ベクレルに変えると通達してきている。
 基準が厳しくなるのは満更じゃないが、どうも我々はいろんな「面子」に振り回されているのではないか。少なくともこれらの新基準は、内閣府が低線量被曝について出した非常に寛大な結論とは、明らかに矛盾している。
 また十二月二十二日の地方紙には、環境省が一面すべてを使い、自らのこれまでの仕事をアピールするような広報を載せた。除染については環境省の「面子」で実施する、としか読めなかったのだが、他になんらかの意味があったのだろうか。
 我々はただ、普通の環境に戻って普通に暮らしたいだけで、できれば訴訟などにも関わらず、静かに生業を営みたいのだが、それだけのことに幾つもの面子が錯綜し、単純には考えられないのが福島の現状である。



 そんな状況でしみじみ憶いだすのは、何より皇室の静けさである。
 単に静けさと言っては語弊があるかもしれない。両陛下は、じつに行動的に被災者のために動かれた。そのことは充分に承知したうえで、私が申し上げたいのは、皇室が放射能について、ほとんど完全な沈黙を守っておられること、極端な言い方をすれば、まるで放射能など存在しないのかの如くに振る舞っておられることである。
 栃木県の発表によれば、那須の御用邸の門前の放射線量は0.45mSv、だから三春町より高い。
 それなのに、この夏も普通にそこで過ごされ、しかも東宮ご夫妻や愛子さまなどは、いつもより少し長めに滞在されている。
 同じ栃木県の高根沢町にある御料牧場では、通常の皇室のお食事を賄う野菜が作られ、鶏、豚、羊などが飼われ、ハムもそこで作られている。地震のためハムを作る機械が壊れ、三ヶ月ほどは供給されなかったようだが、機械の修理が済んでからはそこでできたハムを引き続き召し上がっている。ブータン国王夫妻の歓迎晩餐会にも、御料牧場の羊を使ったジンギスカンが出されたという。
 いったい皇室の人々は、放射能のことをどうお考えなのだろう。
 普通に考えれば、皇居の松など、明らかに陸前高田の松よりも被曝しているはずだし、御料牧場の野菜や家畜たちだって内部被曝を懸念するのが常識だろう。
 しかし一切の数字が出てこない。那須の御用邸についても、栃木県の調査発表以上の資料がどうやら存在しないようだ。
「測らないでください」
 陛下はそうおっしゃっているるのではないか。
 むろん本当にそうかどうかも、またそうだとしてもその真意はわからない。ただただ沈黙のみ。皇室は放射能について、あらゆるコメントを控えているかに思える。そしてその「静けさ」に、私は何かわからない「慈愛」のようなものを感じてしまうのである。

 三月十一日から、皇室は慈愛に満ちていた。
 皇室への勤労奉仕に来ていて帰宅難民になった愛知県の社会人団体と三重県の学生団体を気遣い、両陛下は約60人の人々をなんとか皇居内に泊めるよう指示された(それ以前に、福島県からの団体については特約バスで戻る手配をしてくださった)。そのうえ翌日の早朝には皇后陛下が宿泊所になった窓明館を訪れ、皆に優しい言葉をかけられた。前日に体調を崩していた女子学生には、宮内庁病院への入院を勧めてくださっただけでなく、お見舞いにも行かれたという。
 原発事故のあとは、すぐさま節電のために宮殿を閉鎖し、来日大使の信任状棒呈式など、国事に関する案件以外では宮殿を使わないようにされ、また計画停電にも積極的に協力された。
 さらに特筆すべきなのは、78歳と77歳のお二人の、ほとんど強行軍とも言うべき被災地へのお見舞いだろう。連続七週間に亘り、お二人は次々に被災地を廻り、ほとんどの場合、被災者たち一人ひとりに跪いてお言葉を下さった。
 三月三十日に福島県からの避難者を見舞うため、東京武道館に訪ねられたのを皮切りに、埼玉県加須市、千葉県旭市、茨城県北茨城市、宮城県南三陸町、そして岩手県釜石市や宮古市へと慰問は続けられた。
 五月十一日には自衛隊の輸送機とヘリコプターで福島市のあづま総合運動公園と相馬市の小学校にお出でになり、しかもそこで風評被害のことを耳にされた両陛下は、せめてもの応援にと福島県産の野菜を購入され、東宮家や秋篠宮家へのお土産にされたのである。
 解釈するほうの勝手と言われればそれまでだが、私はそうしたお二人の振るまいに、政治家のパフォーマンスに感じるような気配を一切感じないのである。ひたすらその慈愛に感謝申し上げたい。
 むろん政治家には政治家の仕事があるのだし、官僚だってそうに違いない。彼らが「沈黙」していられるはずはないし、面子だってあるに決まっている。しかしたとえそうであったとしても、皇室の際だった「静けさ」には不思議なほどの安らぎを感じる自分が確かにいる。



 さて再び木枯らしの吹きすさぶ北東のほうに耳を澄ます。するとまた、五十九歳の凍死者の断末魔の声が聞こえてくる。
 また南相馬市の原町中央産婦人科医院からは、絶望的な叫びも聞こえてくる。
「新しい命を守るために、我々は全力を挙げ戦っている。4月、5月、6月は、一月に一人ずつしか新しい命は誕生しなかった。この、針のように細い1本の未来、その上に3万5千人の成人高齢者の重荷が加わっていく未来の社会を想像すると、胸が苦しくなってくる。その一人の新生児を守る為に除染研究会は全力を上げている。しかし、妊婦或いは新生児の家から金銭は請求できず、何処からも援助が無いため、自分たちで出し合ってきた。だが、もう限界となりつつある。政府・東電は何処にお金を出しているのだろうか? 避難している人達には、一定の補償がなされていると聞く。しかし、地元に残って頑張っている人達には何の補償もい無い。これが人の道なのだろうか、絶望を感じざるを得ない。」(医療ガバナンス学会メールマガジン、VOL342高橋亨平院長)
 また机の上に置かれた一通の手紙からも呻き声が聞こえる。脱サラしていわき市の久之浜でラーメン屋を開店して五年目、避難して今は兵庫県に住んでいる55歳男性からの手紙である。
「地元の首長たちは、除染して戻ろうと考えているようですが、本気でしょうか。若者や子供のいない町が成り立つと、本気で考えているのでしょうか」
 ああ、窓の外の暗闇はさっきからずっと吹雪いている。
 どんなに手を差し伸べようと漏れてしまう人の心が、寒風となって吹きすさぶのだろうか。
 私はもう一度、幾つもの面子と深い慈愛の射程を確認するように暗闇を見つめる。そしてはっきりと、そのいずれもが届かない漆黒を、底の見えない吹雪の奥底に見出すのである。
 十二月に入り、文科省の原子力損害賠償紛争審議会は、県内23市町村の約150万人に対し、妊産婦と十八歳未満の子供には40万円を、それ以外の人々には一律8万円を支払う方針を決めた。なんと私にまで、8万円をくださるというのだ。総額2000億円の支出である。
 23市町村以外の猛反発があり、そこには商品券を配ろうかと半端な補填策も検討されているが、そんなことより私には、どうして彼らはもっと近づいて闇の濃淡を視ようとしないのか、なにゆえ「一律」である必要があるのか、不思議で仕方がない。
 各首長とすれば、市町村全員への賠償を目指すだろうから、ここにもじつは濃い闇をつくる一番、身近な面子の壁がある。どうやらどんな行政も、被災者個々人に寄り添うわけにはいかないようなのだ。ならば我々は、皇室の静けさと慈愛とをせめてもの慰めにしつつ、吹きすさぶ面子の木枯らしに耐えて生き抜くしかないだろう。
 今晩は誰も彷徨い歩かないでほしい。凍死しないでほしい。私は身震いしながらそう思う。
 
 
 
「新潮45」2012年2月号 
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