基地問題一色に染まる沖縄は、福島の未来に似すぎてはいないか――。  
     
   新しい年が始まった。干支は「壬辰(みずのえたつ)」である。
 私は年頭の挨拶を書いたのだが、「辰」という文字に嫌な予感がした。本来、雁垂(ガンダレ)は崖、障碍を意味する。それを乗り越えるべく「ガンダレ」の下の「二」(=天)を仰ぎつつ、進まなくてはならないのだが、この文字、「雨」をつければ「震」になるし。手偏をつければ「振」になる。「龍」に置き換えてごまかす気にはなれなかったのである。
 また「壬」は人偏をつければ「任」である。任せられる人も出てくるだろうが、おそらく欲にかられた人も無数に出てくる。これは気を引き締めてかかるべき、と、元旦から明るい挨拶は書けなかった。
 案の定、と言うべきか、早速一日の午後二時半ちかく、かなり広い範囲の東日本各地で、最大震度4の地震が起こった。震度4は、宮城県岩沼から東京、横浜まで幅広く観測された。震源地は東京から南へ約600キロの鳥島付近。地下370キロとされ、マグニチュード7と推定された。震源が深いため、震度1まで含めると西日本まで揺れた。
 東北新幹線を含む一部の鉄道が運転を見合わせ、高速道路の一部区間が通行止めにはなったが、東電の発表によれば「福島第一原発、第二原発に異常はない」という。
 年頭の嫌な予感がすぐさま確かめられた形だが、この「嫌な感じ」はしばらく続いた。
 むろん、「元旦から」震度4、というのが何より「嫌な感じ」の元凶だろう。しかしそれだけでなく、ウィキペディアには「鳥島近海地震」という項目がわざわざ設けられ、「鳥島近海」が震源になると、非常に津波が起きやすいことが告げられている。そして一九八四年、一九九六年、二〇〇六年(なんとこの時も元旦)に津波を伴う地震が起こり、今回はこれまでで最高のマグニチュードだったのである(なお、鳥島近海地震の特殊性については、東京大学地震研究所の菊地正幸氏などが分析結果を発表しており、WEB上でも読める)。
 幸い、今回は津波はなかったが、どうにも不安な年明けだった。そして一月十二日午後十二時二十分、今度は福島県沖を震源地にしてわが三春町もずいぶん揺れたのである。
 その間、じつは琉球大学医学部がんセンターの招きで、私は沖縄に出かけていた。ホスピスケアや緩和医療をめぐるシンポジウム会場での講演があったのだが、その前後に沖縄の作家、大城立裕先生にお目にかかり、また普天間飛行場や嘉手納基地も見る機会を得た。
 今回は、そうした時間のなかで考えたことを中心にご報告したい。

 沖縄へ旅立った一月七日、私のなかには些か罪悪感めいた気分が犇めいていた。それは前日の夜、いつも情報を送ってくださる東大のN先生から「嫌な情報」が届いていたからである。
 先生が示したサイトを開くと、そこには一月四日に文科省が発表したセシウム降下量が書かれていた。空から降下するセシウムの量が継続的に測られていたわけだが、それによると、三日、福島市に降下したセシウム137は、1平方キロメートルあたり252メガベクレルだった。
 比較する数字がなければ何の実感も湧かないだろうから、申し添えると、昨年の原発事故以前から、セシウム降下量は茨城県ひたちなか市で計測されている(福島市ではまだ計測されていなかった)。それによると、三月二十日から、48、1万3000、1万2000、420、63と日々推移する。ちなみに三月の平均は、402メガベクレル/km2 、五月に入ると時に「71」などという数字も見えるが、ほとんどの日は「ゼロ」になる。つまり今年一月三日の福島市の降下量は、去年の三月ほどではないにしても、驚くほど高い数字なのである。
 私はすぐに町から借用している累積線量計を見てみた。N先生は、三春でも線量が上がっているのではないかと、心配してくださっていた。
 幸い、うちの線量計に異常はなく、だいたい毎日2~3μSvという累積にも変化はなかった。
 しかし三春で起こらないことが福島市で起こることも大いにあり得る。原発とこの町の間には大滝根山という高さ約1200メートルの嶺が聳えるが、福島市までは低地を縫うように漂い進むことができる。爆発と言えるような高い噴出でなくとも、福島市なら放射性物質が運ばれる可能性も充分に考えられるのである。
 しかし私は、特に何の連絡もしなかった。福島市役所、あるいは県庁などに、連絡すべきではなかったか……。そんな半端な罪悪感を抱えつつ、羽田空港に向かったのである。
 飛行機が南に向いて離陸したあと、私は見えるはずもない伊豆諸島の鳥島を思い、そして元旦の地震を憶いだした。東電は「福島第一原発、第二原発に異常はない」と発表しているが、それは本当なのだろうか……。今はもう、東電の言うことを、信用していいのだろうか……。 私自身どこにも連絡しなかった罪悪感もあり、その疑心暗鬼は沖縄に行ってからも続くことになった。今回の地震以後、放射性セシウムが飛散している可能性を、私は頭の片隅でずっと疑い続けていたのである。

 沖縄の大城立裕先生には数年前からご厚誼をいただいている。私の父親と同じ年だし、文学の世界でも大先輩だが、以前、『リーラ 神の庭の遊戯』という小説を書いたとき、沖縄のユタやノロの方をご紹介いただいたのがご縁の始まりだった。それ以後、著書も送りあい、メイルのやりとりもしている。
 今回は『福島に生きる』(双葉新書)と『無常という力』(新潮社)の書評を沖縄の二つの新聞に書いてくださったこともあり、是非お目にかかりたいと思っていた。特に『福島に生きる』の書評については、「その文体は、私たちから見れば、『沖縄』を沖縄に住む人が書く手つきに似ている」とあり、その辺の話もお聞きしたかったのだ。
 実際、沖縄の基地問題は、福島の「中間貯蔵施設」問題そっくりである。
 昨年暮れまでには福島県内のあちこちで除染のモデル事業が実施され、各町村の除染計画もおおむね提出された。それ以前には町内会など団体単位に50万円の補助金も出され、通学路などの除染を自主的に行なった地域も多い。
 しかし山林、田畑を含め、本格的な市街地の除染はこれからである。国が主体となり(予算を計上し)、基礎行政から事業者への委託という形でこれから必死に進めようとしているのだ。元旦の地方紙には「除染元年」という言葉が躍った。希望に満ちた言葉のようにも見えたのである。
 ところが次第に障碍が見えてきた。
 まず市町村内部での(除染で出る)廃棄物の仮置き場がなかなか決まらない。「総論賛成、各論反対」ということもあるだろう。仮置き場の必要性は認めながらも、それが自分の家の近くには来てほしくない。南相馬市などでは、元ゴルフ場や運動場などが候補地とされ、説明会などが催されているが、いまだ合意には至っていない。
 私の住む三春町は、累積線量計の配布も早く、県内では唯一、給食の食材の事前測量もなされている町である。しかしこの仮置き場については、他の行政と同じようになかなか決まらない。通常、年に三、四回開催される代表区長会が、昨年三月以降九回も開かれ、十月二十八日の第七回以降は、「除染実施計画」と「仮置き場」について、特化して話し合われたのに、である。
 三春町は、旧三春地区のほかに、六つの地区によって構成される。これは昭和三十年に行なわれた最後の合併で合わさった六ヵ村と考えていいだろう。そしてそのそれぞれに必要な仮置き場面積が算出されたのだが、これが驚くほど広いのである。
 全体では7万3000m2だが、旧町内ともう一つの中郷地区には、1万7000をm2確保しなくてはならない。これは簡単に言ってしまうと、公式試合のできる球場ほどの広さである。いったいどこにそんな場所があるのか、区長さんたちも戸惑ってしまったのだろう。話が区長さんから下に降りてこない。
 仮置き場が決まらないのは、その後の「中間貯蔵施設」の行方にも微妙に絡んでいる。三十年以内にどこかに移動させるという「中間貯蔵施設」が決まらないから、仮置き場も本当に「仮」かどうか確信がもてないのだろう。
 「中間貯蔵施設」については、昨年末、細野原発担当相が双葉郡内への設置を正式に要請。その後、一月五日には双葉八町村の首長らが佐藤雄平知事と会合をもち、受け入れの可否や場所の選定などについて、県が主導するよう要請し、知事は概ねこれを了承した。さらに私が沖縄に来ていた一月八日、野田総理が福島県を訪れ、あらためて双葉郡(八町村)に設置したいとして理解を求めた(原子力災害からの福島復興再生協議会)という経過がある。
 しかしこれに対し、たとえば大熊町議会は十日、避難先の会津若松市の町役場で全員協議会を開き、「郡内全体で協議する問題だ」としてそれ以上の検討を避けた。
 また、双葉町の井戸川克隆町長は、すでに一月四日の仕事始めの挨拶で中間貯蔵施設の受け入れ反対を表明していたが、八日に首相を囲んで開かれた協議会では、首相に対して爆弾質問をしている。
「私たち双葉郡民を、日本国民と思っていますか。法の下に平等ですか。憲法で守られていますか」
 おそらく他の郡内町村長とは連携も相談もなかっただろうが、井戸川町長は双葉郡八町村の現在の町村会長である。この影響は、予想以上に大きいものだったように思える。ちなみに野田総理は「大事な国民だと思っている」と答えたが、文字通り二の句は継げなかった。
 八町村の首長のなかには、除染や住民の帰還を進めるため、郡内設置を早期に決めるべきとの意見もある一方、政府が言うように安全な施設なら、わざわざ郡内の高線量地域に建設する必要はないとの反対意見もある。スムースな合意はとうてい望めない状況である。
 一月十二日には、八町村と県が中間貯蔵施設について話し合う初めての会合が県庁内でもたれたが、井戸川双葉町長が欠席したため協議は進展せず、七町村は双葉町に協議への参加を呼ぎかける意見をまとめたに過ぎない。
 政府への県内の不信感は、おそらく「収束宣言」でピークに達していたのだと思う。十二月二十七日、定例県議会は、原発事故の収束宣言撤回要求を全会一致で可決しており、佐藤雄平知事も八日の協議会では首相に苦言を呈した。しかし知事の発言は、「避難している人が帰還するのが県民にとっての収束」というもので、原発敷地内の収束には基本的に同意したように思える。
 それなら一月三日の例の降下セシウムの増加は何なのか。詳しく見てみると、元旦の午前九時から二日の午前九時まではND(不検出)だった放射性セシウム134と137の降下量が、その翌日から一気に上がっている。
 じつは沖縄に出発するまえに会った二本松の住人は、除染してなんとか毎時0.2μSvまで下がった環境放射線量が、年明け以降毎時0.6μSvまで上がっていると話していた。彼は「今度の地震で、震度5になるようなら、迷わず家族と一緒に逃げる」と悲壮な面持ちで私に話した。つまり彼は、明らかに元旦の地震と関連づけて急激な線量の増加を見ていたのである。

 大城立裕先生は、以前と違って杖は使われていたものの、相変わらずお元気だった。下を向いて唸りながら言葉を選ぶ風情も変わらない。私たちは生ビールで乾杯し、ひとしきり福島を巡る話をしたあと、沖縄の問題に話題を変えた。
 沖縄防衛局が環境影響評価書(アセスメント)を県庁に運び込んだやり方は、反対運動もあって異様なほどに注目された。十二月二十八日未明、さすがに手薄だった反対運動の隙をついて、なんと守衛室に搬入されたのである。私が沖縄入りした時点では結局沖縄県として評価書を受理することが決まり、内容が問題になってきた。「沖縄タイムス」に九日付け一面トップの見出しには「低周波音基準超す」、「健康被害の恐れも」と書かれていた。普天間飛行場を名護市辺野古に移設するという政府案について、政府はこれまで垂直離着輸送機「MV22オスプレイ」の配備を再三否定してきたわけだが、今回の評価書に初めてそのことが記載され、それによる騒音が問題になっていたのである。
 ほとんど詐欺的な書き入れ方も問題だが、もっと問題なのは評価書の内容そのものである。オスプレイの配備により、低周波音が一部地域のすべての予測地点で「影響がある可能性がある」基準を超えることは認めつつ、評価書は「飛行回数はわずかであり、飛行時間も短時間」だと強調する。低周波音というのは周波数が100ヘルツ以下の音だが、自然界や工場、エアコンの室外機からも発生している。しかし米軍のヘリコプターや今回のオスプレイの爆音にも多く含まれているのだ。辺野古北東にある安部集落では、オスプレイ飛行機の騒音が102.4デシベルと予測され、これは睡眠障害など「生理的影響」を及ぼす基準値、100デシベルを超えている。圧迫感や振動感を引き起こす「心理的影響」でも基準値を上回り、また辺野古周辺の10時点で建物の戸が揺れる「物理的影響」の基準値も超えた。
 アメリカではこうした低周波障碍により、クジラの行動や個体数に影響することも報告されている。沖縄の国指定天然記念物、ジュゴンの生息域縮小も懸念されているのである。
 環境省が二〇〇四年六月に策定した参照値によれば、たとえば16~25ヘルツという超低周波の場合でも、77~83デジベル以上で物的苦情を認め、70~83デシベルでは心的苦情をも考慮するよう指針を示している。 二〇一〇年七月の普天間爆音訴訟控訴審判決では、同じ「うるささ指数」の地域内でも、普天間は航空機騒音のなかに低周波音が含まれるため、精神的苦痛が増大していると判断、初めてヘリコプターによる低周波音被害が認定されたものである(福岡高裁那覇支部)。 
 今回のアセスメントに対し、移設予定先の名護市辺野古、隣接する豊原、久志の三区住民でつくる「命を守る会」代表の西川征夫さん(67)は、「評価書の提出の仕方、内容といい、政府が言う『誠心誠意』のかけらも感じられない」と厳しく批判する。また「オスプレイ配備とその危険性は、十五年前から分かっていたこと。住民を無視した建設ありきのアセスだ」と、憤りを隠さないのである(沖縄タイムス)。
 なんとも今の福島、いや、福島の未来に、似すぎてはいないか……。
 だいたい新聞を開いても、沖縄では基地問題一色、福島では原発問題一色、共に国策の問題であり、低周波被害も、低線量被曝も、データの足りない微妙な問題である。あるいは人間の感情も含めた、じつに総合的な問題と言ってもいいかもしれない。
 そういえば大阪の伊賀興一弁護士は、三春町での東電説明会に陪席してくださったとき、放射能の問題は沖縄の騒音訴訟を参考にすべきだと、当初から話していた……。
 私は大城先生に、現状について率直な見解を伺った。
 すると大城先生は、慎重に言葉を選んでおっしゃった。
「アンポはやむを得ないと認めるとしても、……やはりこれは人権の問題ですね」
 そして先生は、その具体例として、公務から帰宅途中の米兵の酒酔い運転による事故のことを挙げた。アメリカは「それも公務中」という態度を変えず、「治外法権」を主張しているというのである。
「逆に言うと、アメリカは徹底してアメリカの国民を守ってくれるということですよね」
 私は皮肉のつもりではなく、そう申し上げた。すると大城先生は、苦虫をかみつぶしたような顔で頷かれたのである。
 沖縄は四十年前に本土に復帰したが、そのあと十年間ほど、復帰したことがよかったのかどうか、という議論が繰り返されたという。たまたま私の講演があった八日には、沖縄でも成人式が開催された。育った地区の中学ごとに同じ衣装を決め込み、男子は酒を片手に威勢よく行進して自分の出た中学の名前を連呼する。講演後それに出くわして驚いた私は、国際通りの店の主に感想を求めた。「恥ずかしい」。そう言って顔を覆ったのは伝統漆器店の女性店主だった。私はそれを憶いだしつつ大城先生に「地域への偏愛は、悪いことじゃないですよね」と言い、また逆に、全ての成人男女が沖縄の民族衣装ではなく、和服、羽織袴であることに感心してみせた。
 すると大城先生は、言葉を発するまえに少し嗤ってから、「あれもね、外交文化の倒錯した流行ですよ」とおっしゃた。
 ああ、明治五年にむりやり琉球藩にされ、その後は琉球処分で日本の県に位置づけられながらも、ここはそれ以前にアメリカ、フランス、オランダと国家間条約まで結んでいる琉球王朝の末裔たちの国なのだ。さすがに沖縄と福島では、「国家」に対する距離と冷静さにおいて、月とスッポンほども違うと思った次第である。

 思えば大城先生のおっしゃった「人権」の問題は、すでに双葉町の井戸川町長の問題意識でもあった。「私たち双葉郡民を、日本国民と思っていますか。法の下に平等ですか。憲法で守られていますか」という井戸川氏の言葉に、憲法の保障する「基本的人権」を思い浮かべるのは、私だけではないはずである。
 驚いたことに、八日のこの「事件」は九日の沖縄タイムスにもかなり大きく扱われていた。「『私たちは国民か』~首相に双葉町長~」そんな見出しで括られた記事だが、しかもその中には、福島の地方紙が割愛した話も載っていた。沖縄がいかに今の福島に注目しているかが判るというものだろう。
 政府が検討を進めている警戒区域の見直しで、年間20mSv以下を居住できる目安としたことについて、井戸川町長は「(20mSv以下で)安全と思っている安全委員会の委員の家族に住んでもらって、安全を確認させていただきたい」と話したらしいのである。
 これをどう受けとめるかは、じつにさまざまだろうと思う。
 細かい数字の是非ではなく、こうした「人権問題」としての視線が出てきたら、今の「国家」は形なしなはずなのである。
 いや、国家だけではない。県も、市町村も、人々の総意をまとめる必要がある場言、どうしても反対する多くの人々の人権が踏みにじられる。単純な話、市町村の仮置き場でさえ、何人かの地権者が嫌々承諾し、大多数のために犠牲になる(大義に殉ずる)ことでようやく決まるのではないか。
 中間貯蔵施設となれば尚更だろう。おそらく県民は、誰も汚染土壌を県外のどこかに運べるなどとは考えていない。県内はやむを得ない、そう思っているはずである。その際、東京都の積極的な協力の影響は非常に大きいように思う。一月十六日、猪瀬直樹副知事は県庁に佐藤雄平知事を訪ね、除染ボランティアの派遣や福島県限定の応援ツアーなどの支援策を申し出た。東京都はこれまで岩手、宮城の瓦礫処理にも協力し、被災三県に遍く応援ツアーなどを実施してきたが、新年度からは福島県に限定するというのだ。猪瀬氏はそのとき、「東京都は電気の消費地として福島県の世話になってきた。できるだけ支援します」とも明言している。
 そうなると、福島県民が挙げた挙が行き場を失い、八つ当たりと見えても言ってみたかった「東京に持っていったらいいだろ」という台詞を、おとなしく呑み込むしかない。
 やはり県内で考えるしかない、そうなるわけだが、その際双葉町長の立ち位置にみんなが立ったらどうなるだろう。
 おそらく幾つの郡で盥回ししても「人権」の壁を破ることはできず、いつまで経ってもその場所は決められないはずである。
 人権と国家権力、これはいわば反対語と言ってもいい。国家が人権に配慮するかのような偽善的な仕草を、鳩山元総理は沖縄に対して見せてしまったがこの間題は、底の浅い人道主義では解決しないのである。
 むろん私は、人権への配慮が不要だと申し上げているわけではない。多くの人権を守ろうとする行為が、常に別な人々の人権を踏みにじることになる。そのような行為主体としての国家という存在に、もっと自覚的であってほしいのである。
 元外務官僚の佐藤優氏は「国家は暴力装置」だと明言しているが、少なくとも権力側はそのことを明確に自覚し、そのうえで「そうは見えない工夫」をしていただくしかない。
 今の福島県、いや双葉郡にとっては、「そうは見えない工夫」とは、まずは原発立地町村の行政存続のためにも、若者たちも戻れるような代替え地の準備ではないか。私はそのことを復興構想会議の当初から訴えてきた。野田政権に代わったあとの第十三回の会議でも、平野達男復興担当相に訴えたのである。平野氏は「重く受けとめて検討いたします」と答えたのだが、あれは普通の日本語の意味ではなかったのだろうか。いつまで待ってもそんな動きは見えないのである。

 私は那覇の都ホテルで講演とシンポジウムを終えた翌日、大城先生に教わった嘉数高地と呼ばれる場所の展望台の上から、普天間の飛行場を見下ろしていた。霧雨でかすんだ空にはヘリコプターが何のためか飛び回り、聞こえる騒音と聞こえない振動とを撒き散らしていた。遥か霧雨のなかに伸びる滑走路のエッジははっきりとは見えなかった。
 その後私は、同行した女房と一緒にレンタカーで嘉手納基地の周囲をまわり、そのあまりの広大さに驚いた。そのまま空港から羽田へと飛び、その晩のうちに寺に戻ったのだが、夜中にパソコンを開くと大城先生からメイルが届いていた。
 数時間で廻れるコースを先生に伺い、我々は普天間から嘉手納基地を巡ったのだが、先生は大事な場所を告げ忘れていたというのである。
「ハリウッドみたいですよ」と解説のあった美浜地区の手前にあるのが「伊佐浜というのですが、銃剣とブルドーザーによる戦闘的な基地接収で歴史に残っています」。メイルにはそう書かれ、『沖縄大百科事典』の「伊佐浜闘争」の項目がPDFファイルで添付されていた。
 そこには私が生まれる前年(一九五五年)三月十九日未明に行なわれた壮絶な武力接収の様子が描かれていた。極東情勢の緊張を理由に「沖縄を巨大な不沈空母にする」と宣言したアメリカは、これまでの「契約権」という考え方を放棄し、一九五三年には「土地収用令」を公布して各地で強制接収を始めた。五四年十二月には伊佐浜地区に立ち退き勧告、移動計画も村代表などとの間で決められたのだが、五五年一月にはその「妥協」を不満とする同区婦人代表が琉球政府行政主席に立ち退き反対を陳情して闘争が始まる。地区民が坐り込み、数千人の支援団体が集結するなど、接収は困難を極めたが、結局は春彼岸中の三月十九日未明、多くの負傷者を出しつつ強制接収が完了するのである。
 私はアメリカ村と呼ばれる一帯の景色を漠然と憶いだしながら、メイルを閉じた。成田闘争のことも、重ねて憶いだしていた。
 国家がその「大義」のために強制力を発揮するのは、第一には戦争、防衛などを契機にしている。今はそれに代わり、経済だけが理由を与えている……、いや、戦争の理由さえ市場経済への奉仕ではないか……。それを「大義なき戦い」と見る大多数の市民にとって、国家や国会とはどんな存在であるべきなのか、枠組みも含めていま、大きく問われているような気がする。
 人権意識の高まりのなかで、国家といえども強引なことが出来なくなってきていることも確かだが……。
「ぐずつき」。この国の全体をいま覆っているのは、人権と国家権力の間での「ぐずつき」、ニュアンスしか違わない二大政党の間での「ぐずつき」、そして選挙システムがうまく機能しないがゆえの、あらゆる政治機能と市民感情の間の「ぐずつき」ではないか。
「ぐずつき」を「平和」と捉えることも、時には可能なのかもしれない。しかし有事においてそれは紛れもなく「機能不全」である。

 一月二十日現在の福島県は、稲わら問題を憶いださせる生コン問題で大揺れに揺れている。
 二本松市の新築マンションの室内で屋外よりも高い放射線量(最高1.24μSv/h)が検出された問題で、原因は浪江町の採石場の被曝した砕石であったことが判明した。基礎コンクリートやベランダ部分などに、その砕石を入れた生コンを使ったのである。しかし出遅れた経済産業省の発表と調査の前に我々が見せられたのは、経産相、国交省、環境省の間の、責任の押しつけ合いであった。出荷された5700トンの砕石の一部は通学路の舗装などにも使われたらしく、流通ルートや使用先の全貌解明、そして対処は、相当難しそうだ。
 有事にさえ取り払えない縦割の壁は、平和ボケの象徴とさえ思える。我々はそろそろ、機能不全のこの国の新たな在り方を模索しなくてはいけないのではないか。アンポに頼って戦後六十六年なんとか保ってきた日本株式会社は、すでに倒産したも同然なのである。
 新たな国家観の模索が、沖縄の基地問題と福島の中間貯蔵施設から始まるのは言うまでもないだろう。
 私自身は、アンポを外し、今さらだが「永世中立」を宣言するのも重要な選択肢だと思っている。今回の震災復旧で示された自衛隊の存在感は、すでに世界を瞠目させている。イラクでもインフラ整備に秀でた技術を示して注目されたわけだが、いったい世界のどこに被災者たちのアルバムを拾い集め、さらには心理ケアまで行なえる軍隊が存在するだろう。戦後憲法の不自由な枠組みの中だからこそ、我々はそのように優れた災害復旧の救済技術集団をもつことができた。これを誇り、永世中立国になる道こそ、本気で検討されるべきではないだろうか。
 文学の徒の範疇を超えた話題だし、これ以上は申し上げないが、私にとっては震災後、前回述べた皇室と自衛隊の存在感がとても大きくなっている。それは確かなことだ。
 さて、先の人権の主張から考えれば明らかだが、「中間貯蔵施設」からどこかに移動して「最終処分」するなど、夢物語である。それができるくらいなら、沖縄の基地も移動可能なはずだし、福島県の瓦礫処分を手伝ってくれる行政も断り切れないくらいあるだろう。
 今のところ、地震のないフィンランドでは最終処分場が決められているが、ドイツではフクシマの事故を受け、最終処分への反対運動が広まっている。二十年もかけて調査し、地下840メートルに調査用の坑道まで作って準備されてきたゴアレーベン村だが、その坑道のある岩塩層の下には地下水や天然ガス層があるとされ、白紙から再び処分場所を探すこともありそうだ。日本では、二〇〇七年に最終処分の調査地点を募集したところ、高知県の東洋町が名乗りをあげたが、後に取り下げている。ましてフクシマの事故以後は、状況がさらに厳しくなったことは間違いない。
 折しも一月二十三日午後八時四十五分頃、福島県沖を震源とするマグニチュード5.1の地震があり、県内川内村で震度5弱を記録した。また同じ日には、東大の地震研究所が、今後四年以内に首都直下型でマグニチュード7クラスの地震が起きる確率が70%程度だと発表した。
 我々はこの壬辰歳に、「中間貯蔵施設」という名の「最終処分施設」を、じっくり、覚悟を決め、人権にも配慮しつつ、地震のことも当然考えながら、捜さなくてはならない。憂うつではあるが、責任重大な一年はまだ始まったばかりだ。

 
 
「新潮45」2012年3月号 
  第一回  第二回  第三回  第四回 第五回 第六回