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『荘子』が、『老子』と共に老荘思想として括られ、禅の 荘周じしん、言葉は風波のようにアテにならないと言う( 堅固だった常識が音をたてて崩れ、そこに気持ちよく風波が過ぎ去ればそれこそ私の本懐である。荘周にとっても本懐であれかしと願う。 今回はまず、「礼儀」というものの恐ろしさについて書いてみたい。 『荘子』人間世篇には、なんとあの孔子や顔回が何度も登場し、いろんなことを語るのだが、この発言も孔子のものとして書かれているところが皮肉である。 孔子は、技を競い合う者は、初めは陽気で楽しそうでも、終わりになると必ず陰鬱な悪意をもつようになると語ったあとで、次のように言う。「礼を以て酒を飲む者は、治に始まりて、常に乱に つまり、礼儀作法に従って酒を飲む人は、初めこそおとなしく神妙だが、最後は必ず乱れてしまうというのである。 不思議に思うかもしれないが、そもそも荘子にとって礼儀というものは、心がないからこそ必要になる飾りのようなものだ。『老子』には「大道 礼に心が一致せず、形だけが一人歩きしている実例は、あちこちでよく見かける。自分にもできないことを、「決まりだから」と取り締まる警察官なども、酔えば乱になりやすい。また自分がどんな精進をしているかに関係なく、立場上初めから「先生」と奉られる学校の先生なども、礼と心が 礼は、往々にして心に先行して身につけるから恐ろしいのである。酒が入ると、その隙間がクレパスのように大きく開くのだろう。 儒教の歴史を眺めると、同じ孔子の弟子でも、礼を重視した人々から「性悪説」の荀子が現れ、孝を重視した一派から「性善説」の孟子が出てきている。礼が重視されるとやがて心を こう申し上げるt、きっと孝にだって礼が必要だと言う人々もいることだろう。しかし孝における礼は、これ以上落ちないというストッパーにはなっても、こんなに孝が実現しているというバロメーターにはなりえない。孝の気持ちもなく、品物だけを外聞を気にして送るようになると、そこには間違いなく礼が冷たく紛れこんでいるのである。 形のうえでは礼を守りつつ、それとはそぐわない気持ちをあからさまに示す「 さて酒の場面に話を戻そう。 この国では、飲むときでも座る場所(座位)を論ずる人々がいる。当然、下の者が上の人に酒を注ぎあるくなど、気遣いも多い。しかし酒を注いだりしているうちはまだ礼も崩れにくい。問題なのはそれが一段落して、それぞれ自席に戻る頃合いである。 儀礼的な時間が済むと、どうしても人は本気で話せる楽しい人のところに集まる。場に粗密ができるのは仕方がないことだ。人が目の前にいれば気も遣い、歓談もするだろうが、誰もいなくなったらどうか。 じつはそのときこそ、本当の「礼」が問われるのである。 礼と心が一致し、すっかり「身についた」人は、誰がいなくともすでに自足しており、ゆったりと飲食そのものを楽しんでいる。そこには、最も大切にし、礼を尽くすべき相手がちゃんといるではないか。独りで飲食する姿には、どう隠しても「それ」が露見してしまう。そして身についた「それ」を、荘周は「礼」とは呼ばないのである。 |
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「なごみ」2011年1月号 | ||