仏教では、いわゆる 「苦」の元凶は、間違いなく「我」である。私たちはほとんど無意識に「我」に都合のいいように世界を見聞きしている。だからそんなふうに都合よく行かない人生は、そのまま「苦」になるのである。 しかしじつは「苦」を前提にしたことで、我々はちょっとしたことでも喜び楽しめるようになった。「苦」で当たり前なのだから、少しでもマシなら嬉しいではないか。 このところ、東日本大震災の避難所や被災地を歩いてみると、そのような明るい諦念も感じられるようになってきた。 宮城県石巻市で津波に その人が仕事着で汗を流しながら重機を動かす姿を見ながら、私は「苦」が、もしやぎりぎりの生き甲斐をも産みだすのではないかと、思ってしまった。前提である苦をなんとか呑み込み、その後の一歩をとにかく踏みだしていることが嬉しかった。 しかし一方で、福島県の原発事故からの避難者を訪ねると、彼らは一様に「憂い」に沈んでいる。明日が見えない、子どもの声が聞こえない、どこで死んだらいいのか、などが共通の心情だろうか。 むろん、なかには家族を失い、家を破壊されたような人々もいるわけだが、彼らからは殆んど激甚な感情が感じられない。ただ避難所の布団の上などに横たわりながら、特にすることもなく、私の質問に力なく答えてくれるのである。 むろん石巻のおじさんにしても、墓を建てるために四六時中エネルギッシュでいられるはずはない。時には独り布団で泣くことだってあるだろう。もしかすると毎晩かもしれない。しかし涙を拭いたおじさんは、きっと激しいエネルギーが身のうちに湧き出すのをどうしようもないのだ。怒りにも似た、悲しみ、苦しさ。 宮城県の津波被災者に感じたこの動的な力は、原発避難民には感じられないものだ。 両者の違いは、いわば故郷という地盤を、いまだ保っているか失ってしまったか、ということなのだろうか。 また、片や純粋に天災、もう一方は明らかに人災という点も大きい。 荘子は至楽篇において、「人の 「天下の尊ぶものは、富貴寿善なり。楽しむ所のものは、身の安きと、 ここで云う「善」とは美名のことだが、避難所のテレビには、美名を追い、美服に包まれ、きっと厚味を食しているだろう人々の討論の様子が流れている。むろん避難民は、誰も見てはいない。 「苦しみ」と「憂い」、どちらが辛いのか、比べられるようなものではないかもしれないが、どうも私には、「苦」は力を溜められるけれど、「憂い」は力も入らない事態のように思える。 避難所で、私は「またお茶のお稽古がしたい」という方に会った。抜けてしまった力を、なんとかもう一度寄せ集める枠組みが欲しいのだろう。「 |
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「なごみ」2011年8月号 | ||
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