『荘子』山木篇(さんぼくへん)に、遊説(ゆうぜい)中の孔子が人々に取り囲まれ、殺されそうになった時のことが描かれている。七日も火を通した食べ物を食べられなかったというのだが、今回の大震災にはそれより酷い目に遭った人々が大勢いたことは間違いない。
 ところでこのときの、一番弟子顔回(がんかい)との対話が面白い。心配する顔回を逆に心配した孔子は、次のようなことを言う。

「回よ、天損を受くる無きは(やす)く、人益を受くる無きは(かた)し」

 敢えてその意味を尋ねる顔回に、孔子は懇切に解説を加える。
 天損とは天災と思えばいい。飢えや渇き、寒さ暑さの苦しみに遭って行き詰まったとしても、それは天地自然のなりゆきとはどうしたって運命をともにし、完全に服従して生きるしかない。それは家臣が主人に仕える以上のことだ。しかしどんな事態であれ、天命と受けとめさえすれば苦しみではなくなるから、「天損を受くる無きは易く」となるのである。
 それなら「人益を受くる無きは難し」のほうは、どんな意味なのか。孔子はまた丁寧に答える。
 諸侯の元を遊説して政治の要を話そうとする自分は、きっと爵位(しやくい)俸禄(ほうろく)目当ての盗人に見えるのだろう。よほど用心深くしないと、自分の本意とは関係ない利益を受けているように誤解され、非難されることになる。
 その点、(つばめ)という鳥の用心深さは見習うべきかもしれない。そう孔子は言う。燕は、少しでも不穏なものを見つけると、それをじっくり見るような迂闊(うかつ)なマネはしない。危険を感じれば、口に(くわ)えていたものを落としても、未練なく去っていくのだ。
 しかしそれほど用心深い燕が、それならなぜ、家の軒先などに巣をつくるのか。じつはそこにこそ彼らの賢さがある。国家が人民を保護する機構であるように、人も懐に飛び込んだ燕はむしろ保護する。だからこそ孔子も、諸侯の元を訪ねるのだが、きっとそれが利益を求めてのことと勘違いされるのだ。故に「人益を受くる無きは難し」。
 なんとなくこの比喩は、今の日本人の状況を彷彿させる。
 国家が我々を守ってくれるのかどうか確信はないものの、とりあえず人々は恐ろしい原発の(そば)の巣に籠もったまま、怯えて震えながら暮らしている。
 孔子は国家に国民を保護する理想を見ていたが、じつは老子や荘子はそんな期待さえ持ってはいなかった。生活上の必要から生まれたコミュニティーとしての小さな(むら)は肯定しても、それ以上大きな単位はみな邑から搾取するための組織と見た。老子は「小国寡民(しようこくかみん)」の思想を訴え、荘子も当時の「国」と呼ばれた諸侯の支配にかたくなに関係しようとしなかった。
 思えば日本も、江戸時代の各藩自立した状態から国民国家に生まれ変わるため、さまざまな「搾取」と「人益」とを生みだしてきた。
 原発は、戦後のこの国の中央と地方をまとめ、共に「豊かさ」へと牽引するための巨大な装置だったのだろう。
 しかし我々は今、国家を肯定する孔子でさえも燕の用人深さを讃えたことを思い起こさなくてはならない。
 この国に住みつづけるためには、口に咥えた「人益」をすぐに放り出し、国家にも同じことを求めなくてはなるまい。いつ爆発するか分からない危険な家では、さすがの燕も飛び立ってしまうはずである。

 
 
「なごみ」2011年11月号 
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