『荘子』馬蹄篇に、「一にして ここで「党する」というのは、徒党を組み、その集団の意見に合わせて人為的に片寄ることだ。むろんそこには、予期しない集団心理もはたらいたりする。「政党」という言葉が象徴的であろう。民主党、自民党、公明党、社民党、共産党など、どの党もわざわざどこか片寄った立場を強調してマニュフェストに独自性を込める。個人的にその全てに賛成はできなくとも、むしろ片寄りによって得られる支持に期待し、個人の考え方は伏せる。それが「党する」ということだろう。思えばそんなワケの分からない「党する力」であらゆることが決められていくのだから恐ろしいことだ。 しかしつい最近までの菅前総理を見ていると、どうも自分の属する政党だけでなく、政党政治そのものに興味を失っていたように感じる。 なんでも独りで考えて言明してしまう。いや、むろん周囲には助言者もいるのだろうが、少なくとも相談するのは政党の組織ではなく、また自ら増やした新設の会議でもない。 政治学者の そのような状況で、菅前総理は「脱・原発」や「再生可能エネルギー」への転換を主張した。内容的には賛同したい事柄だが、いかんせん必要な手続きが踏まれていない。しかしそれでも自民党や公明党は、この総理を早く辞めさせるために法案に賛成したのだ。なんとも奇特な事態と言うしかない。まるで駄々っ子をあやすために言うなりに飴をあげるようなものではないか。 はっきり申し上げて、これは「党」してもいないが、「天放」と云えることでもない。 「天」が「放任」するということは、我々のなかの同じ人間としての「もちまえ(徳)」が信じられている、ということだ。じつに誇り高い信頼関係である。 そして禅はそのような「一」としての「もちまえ」を含んだ心根を、擬人化して「 あらゆる「道」は、自分の属する流派のやり方に従い、自ら師とした人に全幅の信頼を寄せ、習ったことを飽きずに繰り返しつつ無意識化するまで身につけていく。 しかしそうなったあとには、現場において必ずそれが流派だけの片寄り、ほとんど片寄る目的だけで片寄ったあり方ではないのかと、検証する必要がある。 裏や表や薮内や大日本茶道など、重なる部分と違う部分を冷静に見つめることも必要だろう。そうして「一人」の茶人、いや、人間に戻って、「党派」的な立場から自由になるのである。 難しく聞こえるかもしれないが、何のことはない、「人を心地よくもてなす」という原点に戻ればいいだけのことだ。 千利休の「利休百首」に、「稽古とは一より習ひ十を知り 十よりかへるもとのその一」とあるが、初めの「一」が「党」しはじめた「一」であり、後の「一」は「党せざる」「一」なのである。 困難なときほどの「党せざる一」が問われる。政治の世界に「天放」は望むべくもないのかもしれないが、被災地の復興を放置して「党する人々」はもう見たくない。 |
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「なごみ」2011年10月号 | ||
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