茶室に曲線が好まれるのは、たとえば(一)不均斉や(四)自然から推しても当然だと思われる。そして曲がった自然木であれば、残りの五項目もおのずと満たしているような気がする。 しかし「曲」であるということをもっと根源まで遡っていくと、『老子』の「曲なれば もともとこれは木材について言われたことで、「直」ならば柱にも床板にも天井にもできる。役に立つから、すぐに伐られてしまって長生きできない。しかしぐねぐね曲がっている用材としては「役立たず」、伐られないから長生きできる。時には神社のご神木にだってなれる(『荘子』 誰も好んでは使わない「曲」なるものを使うことは、(六)脱俗にも適っている。伐られないはずの木が伐られるのは不幸なことだが、茶室になって長生きするのも一興、そう思ってもらうしかあるまい。 ところでこの「曲」と「直」だが、木のことだけでなく、人間の在り方についても当然敷衍される。その場合はしかし、いったい何に対して「曲」だったり「直」だったりするのか、と深く自問してみる必要がある。 自分の行ない(「彳」)と「心」が「直」に結ばれることを、中国では「徳」の文字で表した。また「耳」から入ったことが「直」に「心」に響くことを「聴」の文字で表す。要するに双方の文字の「四」のように見える部分は、「目」を横に向けたのである。 このような「直」は、感覚を否定する老子や荘子もおそらく批判しないはずである。彼らが気に入らないのは、権力やお金など、世俗的な価値に「直」であることではないか。 『荘子』 列子は「容貌は 「殿様は私のことを直接知ってるわけじゃないでしょう。誰かに何か言われて、『あ、そうか』と思って穀物を送ったんです。そしたら別な誰かに何か言われたら、また『あ、そうか』って、今度は私を罪人にしちゃうかもしれないでしょ。そんな贈り物、受け取れませんよ」 はたしてその後、宰相の子陽は民衆の蜂起によって殺されてしまったと結ばれる。 権力、いや、誰の意向に対しても、個人は公務員のように「直」である必要はない。自らの「性(もちまえ)」や「自然」に従えば、自ずと上の者(管理者)からは「曲」(曲者)と見えるはずなのである。 ここには儒家の管理思想に対する、老子や荘子の反骨精神が見てとれる。また同時に、彼らは管理者にとって「役立つ」ことの虚しさも訴えているのだろう。 『荘子』には、有名な」「無用の用」の例え話あ幾つも書かれている。巨大な 「だいたい、無用についてまず知らなんだら、用の話なんてでてきまへんで。我々が歩く地面かて、実際に使うのは足が踏む部分だけでっしゃろ。けど、だからってその部分だけ残してあとは奈落の底まで掘ってあったら、あんさん歩けまっか」 まぜか関西弁になってしまったが、ともかくそう言われて恵施はグーの音も出なかった。地面を「歩く場所」と割り切って荘周は責めたわけだが、じつはそうした「用」による割り切りじたいを荘周は否定しているのである。 組織があれば当然そこには儒家的な縦の序列が生ずる。上の人のために役立つことも、避けられないことが多いだろう。しかし大切なのは、一つの組織の中の役として生身の個人を割り切りすぎないことだ。「直」も「曲」も、両方あってこそ「自然」ということなのだろう。 そういえば、フラクタル幾何学においては、自然が生みだす最小のラインはすべて直線で、それが集合、成長して曲線を生みだすのだという。人の心も、「直」なるものの組み合わさり方が、たまたま「曲」になってしまうだけなのかもしれない。 |
||
「なごみ」2011年4月号 | ||
第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回 第10回 第11回 | ||